英文解体新書 5.2 例題2 への補足: 平沢 (2014) から見るクジラ構文

免責事項. 本稿は、北村 (2019) の 5.2 例題2 の説明についての補足を個人的な備忘録としてメモしたものです。その理解や訳文は 100 % 正しいものであり、説明も決して間違ったものではありません。ある種の学習者にとっては、しかしながら、混乱や誤解を生じさせうる説明があると考えられるので本稿を執筆いたしました。

5.2 例題2

本稿でのテーマである 5.2 例題2 を引用します。自分はこの説明が腑に落ちずにかれこれ二週間ほど議論や検討を重ねてきたのですが、まずは先入観なく読んでいただいた上で拙論を検討してほしいのでじっくりと味わってみてください。

5.2 例題2 What can the matching of light rays delivered under conditions that make normal vision impossible have to do with fidelity of representation? To measure fidelity in terms of rays directed at a closed eye would be no more absurd.

この問題では第2文がポイントになります。この no more ... の形から、いわゆるクジラの構文、つまり、A whale is no more a fish than a horse is. 「馬が魚ではないのと同様にクジラは魚ではない」というタイプの文の than 以下が省略されたものではないか、と考えた人がいるかもしれません。とすると、この英文は「目を閉じている人に向けられた光線で忠実さを測定するのは (前文の測定と同様) 愚かではない」という意味になるのでしょうか。常識的に考えても違和感の残る解釈ではないでしょうか。この A whale is no more a fish than a horse is. という文は、1.4 節でも触れたように「馬は魚ではない」という誰がどう見ても疑いようのない事実を前提にして、「クジラは馬以上に魚ということはない」と言うことで、結果として「クジラが魚ではない」ということを強調する構文です。つまり、あくまでトピックは文の前半のクジラのほうであり、馬はたとえでしかありません。もし、この基準を今回の文に当てはめるなら、書き手は目を閉じている人に当てた光線を使って忠実さを測ることの意義を議論しているということになりますが、そうでしょうか。常識的に考えて目を閉じていれば光線も何も見えないわけですから、目を閉じている状態で光線をどうこう言ったって仕方がない、というのは誰もが容易に納得できるようにも思えます。むしろ、書き手が問題にしているのは前文の、普通の視覚が成立しないような状況で無理やり光線を一致させることのほうと考えるのが自然でしょう。ここで、発想の転換が必要になります。第2文は一見、クジラの構文のように見えますが、前半に当たり前に誰もが理解できる内容を持ってきています。あくまで視覚に関する話をしているのに、目を閉じている人に光線を当ててその一致がどうこう言うのは馬鹿げている、というのは誰でも容易に納得できます。その誰でも馬鹿げていると分かる事柄を主語にして、「(そうしたとしても) 前文の内容以上には馬鹿げていない」と表現することで書き手が強調しているのは、前文の内容「普通の視覚が成り立たない状況での光線の一致 (the matching of light rays delivered under conditions that make normal vision impossible) を基準に再現の忠実度を判断すること」がいかに馬鹿げているか、ということです。訳し方はいくつかありえますが、要は第2文の例をたとえにして、第1文の内容の愚かさを強調していることが伝わることがポイントです。

普通の視覚が働かないような条件下で与えられる光線が一致したからといって、それが再現の忠実さと何の関係がありえるだろう。目を閉じた人に向けられた光線で忠実さを測るといっているに劣らないバカバカしさだ。

なお、文中で参照されている 1.4 例題1 のうち関係のある記述は次の通りです。

1.4 例題1 . . . Just because it's online doesn't necessarily mean that the information is useful any more than a book being in a library means that that reference is needed or necessary to one's search for information.

. . . さらにこの英文では doesn't の not と後半の any more thanが連動して、いわゆるクジラの構文の1つのパターンになっています。クジラの構文は後半の than以下に明らかに成立しない内容の文を置き、前半の内容もそれ以上に成立することはないと表現することで、前半の内容を強く否定するタイプの構文です。したがって、後半は前半のやや極端なたとえであるということを理解して解釈するとよいかと思います。. . .

. . . ネットにあるからといってその情報が必ずしも有益であるとは限らない。ある本が図書館にあるからといって、それが必要とされるとは、あるいは、情報検索のために欠かせないものとなるとは限らないのと同じことである。

平沢 (2014)

実は北村 (2019) を読む前に自分は平沢 (2014) を読んでおり、これがクジラ構文の最も正確な理解であると認識していました。詳しい用例や論述については各自で参照していただくとして、ここではその概要を紹介します。

  • A is no more X than B という形を取る構文のうち、A を「先行命題」、B を「後行命題」と呼ぶことにします。日本の学校文法で「クジラ構文」と呼ばれていたのは「Bが偽であるのと同様にAも偽である」という意味を表すものでしたが、実は「Aが真であるのと同様にBも真である」という意味を表す場合もあります。
  • そこでクジラ構文を「A is no more ... than B という形を取る構文」と定義しておきましょう。このように形態上の特徴によって定義されたクジラ構文の意味するところは、「Aの方がBよりも真である蓋然性が高いだろう」という聞き手の想定を否定し、両者の差分がゼロであると述べることだというのです。
  • ① 差分スロット: [数量] more X という形は、比較されている二者のレベルの差分を表している。
  • ② 想定の覆し
    • no more than X「たったのX」← more than X を覆している
    • no less than X「Xも」← less than X を覆している
  • ③ 百科事典的知識: 話者同士の間で共有されている知識のうち言葉の意味に関する知識以外の事柄(文化・社会など)→対義語は辞書的知識

パターンI「後行命題が偽であるのと同様に、先行命題も偽である」
パターンII「先行命題が真であるのと同様に、後行命題も真である」

非常に重要な注意. ここでは $0$ と $100$ とを代表例に取りましたが、あくまでもそれは百科事典的知識(③)に由来するパラメータであって、別に $50$ だろうと $\pi$ だろうと $0.25$ だろうと何でもよいのです。それがレトリックとして成功するかどうかは、クジラ構文の骨子たる差分スロット(①)と想定の覆し(②)に全く関係のない完全に別の問題なのです。

ここで自分はてっきり no more X の no more は $=$ だけを意味しており、 $>$ も $<$ も絶対に成り立たないのだと誤解してしまいました(追記: それ以上でもそれ以下でもない - 空論上の砂、楼閣上の机。も参照)。しかし次のような文例をある方から指摘され、考えを改めることとなったのです。

He returned swift and silent out of the shadow and stood close to the helm, eyes level with Ben's; no taller than Ben. Not even as tall, perhaps.

(Pangborn, Wilderness of Spring)

Suspect in 1966, it is no less suspect nowadays. . . . If anything, it is worse.

(Mann, 1491: The Americas Before Columbus)

なお、perhaps や if anything のように可能性を示す言葉は必要なのだと思います。なぜならば、もし全く疑いなく等号が成り立たず $>$ であるとしたら最初から it is more suspect と言うか、あるいは完全に打ち消してしまうはずだからです。しかしながら、当初のようにもし「 $>$ も $<$ も絶対に成り立たない」のだとするとこれは明らかに矛盾してしまいます。どう解釈すればよいのでしょうか?

今ここで

  • 「意味が $=$ である」とは「 $>$ の読みも $<$ の読みも排除されている」ということ
  • 「意味が $\fallingdotseq$ である」とは「 $>$ の読みも $<$ の読みも完全には排除されていないが $\gg$ の読みと $\ll$ の読みは完全に排除されている」(ただし $>$ と $\gg$ の区別は話者の判断に依存する)ということ

という記法を用いることにしましょう。この下で平沢 (2014) の主張を明確にすると次のようになるのではないでしょうか。

no more X 構文は、想定の覆し(②)によって $>$ の読みだけを排除し、差分スロット(①)によって $\fallingdotseq$ であると主張する構文である。その上で百科事典的知識(③)と組み合わせることでクジラレトリックが成立する。

百科事典的知識が先行命題に作用するか後行命題に作用するかで二通りに分類されます。

パターンI「後行命題が偽であるのと同様に、先行命題も偽である」修正版
パターンII「先行命題が真であるのと同様に、後行命題も真である」修正版

したがって「ひょっとすると $<$ かもしれない」という文が続くことは何ら矛盾しない現象だったのです。実際、脚注2に次のように書かれているのです。

no more than 〈数値〉は他に「…を超えていない」「…以下である」の意味でも用いられる。たとえば試験で Answer this question in no more than 100 words. のような問題文が使われることがよくあるが、「たったの 100 語で答えなさい」では明らかにおかしい。もちろん「100 語以内で答えなさい」の意である。さらに、「たったの…」で解釈されても「…以下である」で解釈されても問題ないような場面で no more than が使われる場合もある. . . .

これは日本語でも「120字程度でまとめよ」と問題文にあるのに解答欄のマスは120個しかないという事態に対応しています(もちろん等価な表現では全くありませんが)。

実は Collins (2016) によると not more X と no more X =*1 not any more X は統語的には異なる振舞いを示すものの、その真理値は同じであることが指摘されていると分かりました。これは一見するとおかしいのですが、上に述べた事情を考えればたしかに真理値は同じにならないと逆におかしいことが分かります。

実は平沢 (2014) では単に「ゼロ」とあるのですが、自然言語は必ず誤差がある以上、安藤 (2005) に倣って「ゼロ程度」としておきました。そこでは no more X 構文の no は構成素否定であり、not more X 構文の not は文否定であるということが Jackendoff テストを論拠に主張されています。しかしながら、端的に反例を示せば、それでは no sooner 構文で倒置が起きることに矛盾します。そもそも De Clercq (2020) が主張するように Klima (1964) や Jackendoff (1969) の提示した「文否定 vs. 構成素否定」はそもそも厳密な二分法ではないため、単に構成素否定であるからという理由でさまざまな説明をするのは実は少しだけ乱暴なのです。
追記. 次作の『英文解体新書2』の p. 211 には「クジラの構文の亜種とされる not...any more than 〜の形の場合、この解釈〔引用者注:「Aが真であるのと同様にBも真である」という解釈〕はできません」という記述があります。これは素朴には文否定と構成素否定の違いと見てよい現象であろうと思われます。

再論

平沢 (2014) は認知言語学的で北村 (2019) は語用論的な説明であることを考慮に入れつつも、前者の用語で後者の説明を解釈することにしてみましょう。

まず 1.4 例題1 から分かるように、本書では「後行命題が偽であるのと同様に、先行命題も偽である」クジラ構文のことを「クジラ構文」と定義しており、その上で 5.2 例題2 の「先行命題が真であるのと同様に、後行命題も真である」クジラ構文を「クジラ構文ではない」と説明しています。これは用語法の差異であり、決して間違ったものではないことに注意しましょう。

ではそのことの証明はどのようになされているのでしょうか?

  • 「クジラ構文」は、後行命題(Bとする)が前提(たとえ)で先行命題(Aとする)が焦点(トピック)となるような意味を表す。
  • この文ではBが「普通の視覚が働かないような条件下で与えられる光線で忠実さを測定することは愚かである」であり、Aが「目を閉じている人に向けられた光線で忠実さを測定することは愚かである」である。
  • しかし、百科事典的知識から判断できるのはむしろAであり、書き手の焦点はBにあるはずであるので、Aが真であるという前提をたとえにして「B以上には真ではない」と表現することにより、Aがいかに真であるかを強調しているはず。

このように「前提と焦点が逆なので発想も逆転させましょう」という背理法的で少しレトリカルに過ぎるものとなっており、これでは学習者にとってクジラレトリックを過度に高尚なものだと誤解させてしまう虞があります。しかしながら、平沢 (2014) で示されていたように、クジラレトリックというのは日常的に非常によく使われる考え方なのであり、また母語話者がわざわざ発想を逆転させた上でこの文を読解するとは到底思えません。

また、これによって「クジラ構文」でないことは示されましたが、「それでは一体何なのか?」という疑問を本文中で解消することはできません。

さらにもっと重要な問題は、説明の中に日本語母語話者でも解釈の割れる文が用いられていることです。それは『(そうしたとしても) 前文の内容以上には馬鹿げていない』と「目を閉じた人に向けられた光線で忠実さを測るといっているに劣らないバカバカしさだ」です。冷静に考えてみると、この二つは違う意味にしか思えません。そこでアンケートを取り、200人程度の投票数のもとで次のような結果が得られました。

Twitter の投票はやり直すことができませんし、4択なのでバイアスも掛かっていますし、文脈の中で読めば結果が変わりうる可能性もありうるかもしれません。しかし、ここで本質的なことは、明らかに「AはB以上には馬鹿げていない」と、「BはAに劣らないバカバカしさだ」「BはAと同じぐらい馬鹿馬鹿しい」とが違うグループに感じられていることがまざまざと示されてしまったということなのです。データの偏り云々を抜きにして二グループには有意に差があります。実際、日本語同好会のメンバーをインフォーマントにして調査・議論してみたところ、上から順にほぼ全員が $<$, $\fallingdotseq$, $\fallingdotseq$ を選ぶという結果が得られました。

したがって、もちろん人によっては上の二つが同じ意味に感じられるので全く矛盾していないじゃないかという反論は正しいのですが、おそらく大多数の日本語母語話者にとっては「北村 (2019) の 5.2 例題2 の説明と訳例は細かいことを言えば一致していない」と主張することは妥当になるでしょう。なお、1.4 例題1 も全く同じ状況です。

ところが、これは偶然なのか意図的なのかは分かりませんが、訳例に用いられている 1.4 例題1「のと同じことである」と 5.2 例題2「に劣らないバカバカしさだ」はどちらも上で論じた no more X 構文の意味と合致した表現となっているのです! したがって、この理解や訳文が 100% 正しいものであることは疑いようがありません。おそらく説明中の「以上には馬鹿げていない」を「同じぐらい馬鹿げている」に読み替えて理解すれば、同じに感じられない一部の読者にとってもちゃんと一貫したクジラ構文の説明になるでしょう。

余談

しかしよく考えてみると、5.2 例題2 が上手くいっていることをよく考えてみれば、実は「負けず劣らず」と no more X 構文はレトリックとして完全に同型なのではないでしょうか? そのことを鑑みれば、逆手にとってそれを定訳としてもよいのでしょう。ここでは学習上の便宜のために同じぐらいであることを強調する訳文の方が誤解が少ない上に分かりやすいのでそちらに合わせましたが、レトリックとして完全に同型であることが判断できるのなら当然「負けず劣らず」のようなタイプの表現を使う方が逐語訳という観点でいえば相応しいに決まっています。翻訳論の問題についてここで踏み込むことは(今は不毛なので)いたしませんが、英語のクジラ構文に光を当てることによって逆照射される形で日本語のクジラ構文を再発見すると同時に相対化することができる……まさにそれこそが英語学習の大きなメリットの一つに他ならないのではないでしょうか。

参考文献

北村一真. (2019).『英文解体新書 構造と論理を読み解く英文解釈』. 研究社.
安藤貞雄. (2005). 『現代英文法講義』. 開拓社.
Collins, C. (2016). Negating comparative quantifiers. lingbuzz.
De Clercq, K. (2020). Types of negation. In V. Déprez & M. T. Espinal (Eds.), The Oxford handbook of negation (pp. 58–74). Oxford University Press.
De Haan, F. (1997). The Interaction of Modality and Negation: A Typological Study. Routledge.

*1:この等価性は no の語源からも明らかですが、一般には否定辞編入と呼ばれる現象の代表例になっています。