感覚の文法

『〈私〉のメタフィジックス』は永井均のデビュー作であり、近年の主著である『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』とはかなり雰囲気が異なっていて何だか可笑しい感じだった。ところで、最初に全然本筋に関係ないことを述べておくと、p. 19 にある「「痛い」と言うことを覚えた子供」と「「痛み」という名詞」のように「と言う」と「という」がちゃんと書き分けられているのは初めて見た。率直に言えば、かなり安堵した。

第 I 部は全体を通して面白いが、特に「二 感覚の文法」が個人的に最も読み応えのある章だった。第 II 部は面白くないところも出てくるけど、カミュ『異邦人』についての記述(特に「四 人生の作品化」)はとても良い。第 III 部はびっくりするぐらいつまらなかったが、あとがきにもその旨が書いてあって安心した(p. 233)。

……私は本書の第 I 部を「小学生の部」、第 II 部を「中学生の部」、第 III 部を「高校生の部」と名づけてもよかったと思っている。それは「私」が大人になっていく過程の記録であるとともに、私自身の成長の記録でもあり、少なくとも現在の私にとっては、本書がつまらないものになっていく過程でもある。それゆえ本書には「大学生の部」以後はない。

実はその個人的に最も読み応えのあった「二 感覚の文法」は、著者がすでに発表していた論文が元になっている。

doi.org

これは特に辞書の定義を検討しているところが面白いのでぜひ読んでみてほしい(この論文が元になっていることを知るまでは記事として議論の紹介をしようかと考えていたがその必要はなくなった)。また、その過程で示されている「嫉妬」についての考察は、少し前に出版された『遺稿焼却問題』でのジェンダーに関する議論にも関わっている: