「Re:運動会への想い」について

(運営の方へ:本記事の修正や削除には原則として応じるつもりなので、必要があればご一報ください)

現在、Re:運動会の参加者を確定させる最後の参加者募集を行っています。

Re:運動会をここまで主導してきた身として、Re:運動会というイベントをどのような位置づけのものと捉えているのか、どう向き合っているのかについて、拙文ながら綴らせていただこうと思います。

長くなってしまします〔原文ママ〕が、興味があればお読みください。


僕自身、Re:運動会の準備を進めてきましたが、自分がやろうとしていることは本当に正しいのか、もう一度棒倒しをやることに意味があるのかという迷いが、いつも心の中にありました。


僕は、自分の中で「もっと何かできたんじゃないか」という後悔に突き動かされて、Re:運動会の準備を進めてきました。

しかし、大学生にもなってこんな後悔を抱いている人は、ほとんどいないもと〔原文ママ〕思っています。棒倒しをやっても、先輩方から受け継いだ伝統を繋ぐ後輩はいません。運動会に熱狂し、毎日そのことばかりを考えるような日々は戻ってきません。新たな道を進む中で、運動会のことなどとうに興味がなくなったという人もいるかもしれません。


そんな中で、未練を晴らすための運動会を開いても、誰ももう振り向かないのではないか。

それでも僕がRe:運動会に携わろうと思ったのは、運動会の形や、みんなの想いが変わっていても、確かに僕たちの運動会と呼べるものが、Re:運動会の中にあるのではないかと思ったからです。


みんながこのRe:運動会に対して抱く想いは、喜びから反発まで様々で、参加する理由も、しない理由も人それぞれだと思います。もちろん運動会への想いは、高3の時から大きく変わっていることでしょう。そんな中で開かれるRe:運動会は、もはや「運動会」ではない。そう思う方もいると思います。

しかし、本来の運動会を思い返しても、そこに向き合う人達の想いは、多種多様だったように感じます。組の仲間と勝つために全力を尽くすこと、競技で勝つこと、後輩に伝統を繋ぐこと。運動会に向き合う理由は、運動会に感じる価値は人それぞれだったのではないでしょうか。それでも、様々な想いを持った人達が「運動会」という1つのイベントで結ばれる。たくさんの気持ちや衝突の中で、自分たちの「運動会」を創っていく。


かつてあった運動会への熱は、もう無いかもしれません。Re:運動会に向き合う理由も、高3の頃と全く違うかもしれません。けれども、それぞれがRe:運動会に思いを抱いてくれたなら、「Re:運動会」の中には、運動会と呼べるものが確かに残っていると信じています。


かつての同級生と運動会を楽しみたい。せっかくならもう1回棒倒しがしたい。物珍しいから参加する。もちろん、僕のように運動会への想いを晴らしたいという方もいるかもしれません。

Re:運動会に参加する理由はどんなものでもいいと思っています。「参加しない」という選択も、運動会を創る想いの1つの形でしょう。様々な想いを抱く、たくさんの人に参加していただくため、手軽に、そして安全に参加できるような練習の制度や安全対策を整えています。それぞれの理由で参加した人たちが、棒倒しを、Re:運動会を楽しんだなら、それが自分たちなりの運動会だと胸を張って言えると信じています。


長くなってしまいましたが、2年間をかけて準備を重ねてきた企画になっています。もし少しでも興味を持ってくださったら、是非参加していただけると嬉しいです!

皆さんと一緒に、最後にもう一度運動会ができることを楽しみにしています。

書かれていることをそのまま要約すると、

Re:運動会の主導者でもある筆者は、私的な未練を断つための運動会の再開催に正しさや意味があるのか悩んでいたが、後悔への決別や反発による不参加を含むすべての態度が運動会を創ると考えたので、Re:運動会の中にも本来の運動会の姿があると主張する。

ということでしょう。つまり、不参加さえも運動会を創る一要素なのだという暴論を展開することで「学年全員が運動会に携わる」という状況を論理上無理やり作り出し、「正しさ」や「意味」についての問いには一切答えないままその場の感性に身を任せてお茶を濁した、と解釈できます。しかし、たとえば仮に多くの人が未練を晴らしたいと思っていても、それをやることが正しくて意味があるとは限らないことなどいくらでもあるでしょう。いわんやRe:運動会などというものは本来不要なものであり、あまつさえ現金による賛助まで募っているのですから、「準備委員会としてRe:運動会を主導してきたメンバーの1人」という立場の人間がこのように極めて稚拙なエッセイ崩れの声明を出すべきではないでしょう。

そして私が何よりも嘆いているのは、こんな激ヤバ文章を、Androidのテキストエディタでスクリーンショットしただけのお粗末な体裁で、主導者の名の下に誤字脱字付きで公開するのを、運営のあなた方が誰一人として止めなかったということです! 私が信じていた高校同期の知性や品性の圧倒的な高さは一体何だったのか、これほどまでにひしひしと現れている人文知の欠如・軽視のみならず組織構成の杜撰さは一体何なのか、という絶望感が(在学中からうすうす勘付いてはいたが)ここにはのっぺりと広がっています。……とはいえども、何人かの信頼できる友人に感想を伺ってみたところ、おおむね同じような意見だったので、少なからず私にも希望は残されているようです!(露悪的!)