古文で同格の「の」という用語を一度は聞いたことがあるでしょう。有名なのが「白き鳥の、嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。」(伊勢9)です。以前より、古文の同格構文は英語の関係詞節に類似が見られると考えておりましたが、調べてみるとネット上にもごくわずかだが指摘が見受けられました。ここでは英語の関係詞節については十分よく理解されているものとし、古文の同格構文とは何か、どう類似性を見出せるのか説明していきます。ナゾを解く鍵は、小田勝 (2015) の「11.3 準体句」にあります。以下、テーマに沿う形で紹介します。
まず準体句とは「用言の連体形がそのまま用いられた名詞句」です。その主名詞としてヒトやモノが想定される場合「モノ準体句」と呼び、コトやノが想定される場合「コト準体句」と呼びます。モノ準体句は構造上、
- 消去型:主名詞が文脈依存的で、準体句内に顕在していない
- 追加型:「…の」の形で主名詞が表される
- 残存型:主名詞が準体句内に顕在している
の3つに分類でき、追加型を特に同格構文と呼んでいます。例:
- 仕うまつる人の中に心たしかなる△を選びて(竹取)△=人
- 女君のいと美しげなる△、生まれ給へり。(源・橋姫)△=女君
- 五条にぞ少将の家ある△に行き着きて見れば(大和101)△=少将の家
では具体的にどのような意味を持つのでしょうか?
- 収斂型:「[体言]の中で[準体言]という属性をもつもの」とパラフレイズでき、上の体言の示す意味範疇を下の準体言が限定し狭める
- 等号型:「[体言]で、[準体言]である[体言]」とパラフレイズでき、上の体言と下の準体言とが同一物を指示する
- 「体言+の+ある」型:パラフレイズしにくく、「体言」をその場に存在するものとして話題に導入する役割だけを担う
- 述語並立型:体言・準体言ともに「〜は」に対する述語として、説明が複数、並列的になされる
と分類されています。例:
- [元良親王ハ]いみじき好色にてありければ、世にある女の美麗なりと聞こゆる△には、会ひたるにも会はざるにも、常に文を遣るを以て業としける。(今昔24-54)
- [高藤ハ]「いかにせむ」と心細く怖しくおぼえてゐ給へるに、家の後の方より青鈍の狩衣袴着たる男の年四十余ばかりなる△、出で来ていはく(今昔22-7)
- 義澄、その男を呼びて問ふとて尋ぬる程に、膳夫(=調理人)の有る△が、これを聞きて云ふやう、「……」と語れば(今昔28-30)
- 父の大納言は亡くなりて、母北の方なむいにしへの人のよしある△にて(源・桐壺)
さて、お気づきのように、収斂型は制限用法、等号型は非制限用法です。3は別に who is present とかなんでも言いようがあるでしょうし、大体これはニュアンスの問題です。うまく当てはまらないのは4だけ*1です。でもこれもすごい微妙な気がします。少なくとも収斂型と等号型の場合は、意味的にも統語的にも次のように綺麗な類似が成立します:「体言」は「先行詞」、「の」は「関係詞」、「△」は「空所」です。
こういうことを一々書いたのは、僕が古文の同格構文を読むときのフィーリングが、英語の関係詞節のと同じだと中3ぐらいのときに気づいたからです。誰も指摘している人がいなかったので不安でしたが、同じことを考えている人が何人かはいることと、ちゃんとした専門書に構文の生成のされ方と意味するところが書かれていて見事に合致していたこととが後押しとなって、こんな記事を書きました。古文はまだまだ素人なので間違い等があれば是非指摘していただけると幸いです。
参考文献
小田勝. (2015). 『実例詳解 古典文法総覧』. 和泉書店.
*1:ところでこの構造には今まであまり気を払わずに読んでいましたが、冷静に考えるとめっちゃ出てくるやつですね。