「思考吹入と所有者性」

経緯

昨日から、東京大学出版会から出ている「シリーズ精神医学の哲学」を息抜きに読んでいます。まだ第一巻『精神医学の科学と哲学』を読み始めたところなのですが、第二章「思考吹入と所有者性」で頭を悩ませた部分があったのでメモしておきます。

要約

この章では、統合失調症の症状としてしばしば現れる思考吹入(しこうすいにゅう、英:thought insertion、独:Gedankeneingebung)において否定されるのはどのような意味での所有者性かを明らかにするために、思考の①主観性、②行為者性、③制作者性、④因果的一貫性の四つの性質を検討し、④がもっとも妥当だという結論を得ています。この際に検討された例とその評価について、私が個人的に表を作成してみました。

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信原 (2016) を基に作成した表

注意. 意味的一貫性と制作者性は強い繋がりがあるので評価も必然的に連動します。わざわざ意味的一貫性の欄を設けたのは、左三つが標準的に提唱されていたモデルなのに対し、右二つが Martin & Pacherie (2013) の提唱した新しい枠組みとして扱われているからなので、実際に各ケースを論じるときには①②③④⑤の区切りではなく①②③④の区切りに注目しているのです。

しょうもない疑問

私が頭を悩ませた疑問のうちしょうもない方は、この三段落目の最終文が第一段落と矛盾しており、推論がおかしいのではないかと思ったことです。

しかし、因果的一貫性と意味的一貫性はふつう一緒に成立するとはいえ、ときにはそうでないこともある。まず、因果的一貫性が成立しているのに、意味的一貫性が成立しないことがある。強迫的思考はそのようなケースだと考えられる。さきに述べたように、強迫的思考においては、因果的一貫性は成立しているが、思考の内容が是認されない。それゆえ、そこには意味的一貫性はない。
また、逆に、因果的一貫性が成立していないのに、意味的一貫性が成立することもある。たとえば、脳への磁気刺激によって景気がよくなるという思考がわたしに生じたとき、その思考は因果的一貫性のある形で生み出されたわけではないが、それでも意味的一貫性はある。景気がよくなるという思考はわたしの現在の知覚や過去の記憶、長年の信念などと内容的によく整合している。わたしはその思考の内容を是認できるし、その思考を自分の思考だと思えば、それを自己の物語のなかに組み込むことができる。
因果的一貫性と意味的一貫性がこのように区別できるとすると、思考吹入において否定されるのは因果的一貫性と言う意味での所有者性であるという見方(Martin & Pacherie 2013: 117)が可能になる。この見方によれば、思考吹入において自分の意識に現れる思考が自分のものでないと感じられるのは、その思考が因果的に一貫した仕方で形成されていないからである。そうでなければ、たとえ意味的一貫性がなくても、その思考は自分のものだと感じられ、思考吹入にはならないだろう。

実は接続詞「そうでなければ」を文否定と解釈したのが原因で、これは「因果的に一貫した仕方で形成されていない」を否定している(つまり二重否定!)としか考えられず、

思考が因果的に一貫した仕方で形成されていれば、たとえ意味的一貫性がなくても、その思考は自分のものだと感じられ、思考吹入にはならないだろう。

と読み替えられるべきものであり、たしかにこれは第一段落と整合的な内容になります。

しょうもなくない疑問

じゃあ脳への磁気刺激は思考吹入になるの?

脳への磁気刺激といえば、精神医学では経頭蓋磁気刺激法(Transcranial Magnetic Stimulation)が有名です。2019年6月には厚生労働省が治療抵抗性のうつ病に対してTMSの保険適用を認めることもあってか、今では「怪しげな民間療法」のような説明をされることはなくなったと考えてよいでしょう。副作用として報告されているものを見る限り、どんなに大きくとも「幻覚」に届くか届かないか程度であるようです。現実でのデータから言えば「脳への磁気刺激が思考吹入になることはないだろう」と言うのが筋なのでしょう。

しかしながら、ある種の「理想的な脳への磁気刺激」が存在したと仮定して、もしそれが実際に思考を誘発させることも可能だとしたら、果たして本当に脳への磁気刺激を思考吹入から区別することはできるのでしょうか? むしろ統合失調症患者の多くはそのような外部から印加された磁場の影響などに自らの思考吹入を還元するわけです。そもそも、それがTMSなどによる脳への磁気刺激ではなく、統合失調症という精神疾患の一症状であると医師が判断できるのは、一体何によってでしょうか?*1

実は、患者はTMSなどの医療機器によって脳への磁気刺激を受ける場合、生じてきた思考を「これは今脳への磁気刺激を受けているから発生している思考なんだな」と判断できてしまうのでそもそも因果的一貫性を持っているのではないかということがあるのではないでしょうか? もしそうだとしたら、上の表からも明らかですが、自生的思考として捉えられるはずです。あるいは(これは思考実験的ですが)もし脳への磁気刺激によって思考の所有者性を感じる部位をいじってしまうことで無理やり所有者性だけを失わせてしまった場合はどうなるのでしょうか?

少なくとも、脳への磁気刺激を持ち出さずとも「思考吹入では因果的一貫性が否定される」というのは正しい命題なので、「因果的一貫性が存在するならば思考吹入ではない」のも確かです。しかし、これ以上ここで深入りするのは今は控えて、別の記事で追って議論し良い結果が出たら再度まとめるということにしましょう。

*1:実は「究極的には決してできない」が答えなのではないかと睨んでいますが、それはかなりに純度の高い思弁的な議論を要するはずなのでここでは避けておきます。