King Gnu の “Teenager Forever” には十代にしか歌えない響きがあったはずなのに、今年でついにその想いを放棄しなければならなくなりました。十代の苦しみをもう一度体験することだけは嫌なので、この一方向性そのものには罪はないどころかそれ自体が救いでさえあるのかもしれないのだとわかっていても、あの特定の時期にしか倒錯性なく(!)表現できていた無色透明の事柄たちがもう永遠に手垢と色のついたありきたりな言葉によってしか伝えられないという事実から、どうにか目を背けたまま忘れ去りたいと切に願う日々を送っています。かつてはヘミングウェイの文体に心底陶酔していたのに、それは若さゆえの(かつ数学と物理学だけを崇拝していたがゆえの)単眼的な世界像と極端なまでに青々しかった私の中での分析哲学的な明晰さの探求によって、そして衒学的な息の長い文章を忌避するいわゆる「理系」の文化圏からの批判への恐怖によって生まれたものだったのだと気づいてしまい、この今の自分をその系譜とともに(それと並行してその系譜抜きでも)正しく導くのはより複層的な世界像の貼り合わせを伴った観察のみによってであって、それは二次元的な思考の相互の論理関係を可能な限り忠実に写し取る擬一次元の「長たらしい文」によってしか達成されえないということをついに直観するにいたってしまいました。ここでの一つの教訓は、私にとっては、言語の「正体」あるいは「ケツ持ち」は統語 (syntax) にしかないということです。しかし、こんなことは極めて明らかなことですね……。
Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.
私だけに感じられる神とは、すなわち言語であり、論理であり、そして自然でした。これこそが私にとっての本当の三位一体であり、かつすべての〈正しさ〉の源泉でもあります。もちろん、もしかしたら「神とはすなわち情報である」と信じる情報科学者がいるかもしれませんが、どちらかというと情報そのものは実体をなしておらず手段や形態にすぎないように思えます。いずれにせよ、それらに近づくための道こそが学問(と私が呼ぶものの定義)であり、それを志すことの構造的な歪みを解消するために時折現れる種々の暴力性の発露(暴飲暴食、拒飲拒食、過眠不眠、飲酒・性行為、……)を最低限に留め続けて無に帰することこそが修行であり、本当の意味で求め続けていたものはまさに自己の救済であったということでした。
それでも、«φιλοσοφία» という語は改めて見返すと非常に言い得て妙であり、ヨーロッパの大学が伝統的には神学部・法学部・医学部の上級学部と哲学部(かつては教養学部)の下級学部に分けられていたことも非常に面白いと思い直しています。
はてさて、己は哲学も法学も医学もあらずもがなの神学も熱心に勉強して、底の底まで研究した。そうしてここにこうしている。気の毒な、馬鹿な己だな。そのくせなんにもしなかった昔より、ちっともえらくはなっていない。マギステルでござるの、ドクトルでござるのと学位倒れで、もう彼此十年が間、弔り上げたり、引き卸したり、竪横十文字に、学生どもの鼻柱を撮つまんで引き廻している。そして己達に何も知れるものでないと、己は見ているのだ。それを思えば、ほとんどこの胸が焦げそうだ。
愛といっても色々な種類がありますが、今の私にとっては、なぜか学問は明確に性愛 (ἔρως) と結び付いているように感じられます。これをおおむね突き止めた方法は、たとえば、背中が痒いのを孫の手を使って探し続けた結果として、真ん中あたりを掻くと神経伝達物質が放出されて即座にえもいわれぬ快感が襲ってくることによって、「実は背中の真ん中あたりが痒かったのだ」と事後的に探索し終えることができるようなものです。性行為と学問はもちろん平行線にすぎないので、両者はその方向の無限遠点で無事交わることになるのでした。
「あの頃はお互い命がけで学問してましたね」
「自己存在の危機にあったからな」
たしかに、私ももちろん自己存在の危機にありましたが、少なくともあなたがどうかはさておき、私は当時はまだ社会に毒された「優秀さ」や「有能さ」という尺度から抜けられていない不純で邪な動機に大いに突き動かされていた面もありましたよね。そして、私は(宮台節で言えば)明白なクズであったのもきっとあなた方(あるいはお前たち)もよくご存知の通りでしょう、それも中途半端なクズでありながら筋を通しているつもりで手の施しようがないような種類の!
ところで、そのような意味で役に立たない (impotent) 学問というのは、もちろん存在します。したがって、私たちに要求されているのはそれぞれの学問に格 (rate) を付け合い、役に立たないものは適切な鋳型 (cast) に押し込めてあげることです。「選択と集中」とは学問に対する優生学のことでしたし、そういえば数学者の感じる「面白さ」によって存在価値が定められている幾多もの定理たちはある意味で二千年間にもわたる厳しい優生思想による選別を受け続けているとも言えましょうか。私にとっては、ただ性愛を自ずから満たしてくれるような分野こそが役に立つ学問に他なりません。たとえば、数学基礎論や生物学がその代表例であり、そして本当の教育すなわち薫陶とは、指導者が実際に極めて彼人の性愛を引き立ててくれると感じる事柄を底が見えないほどに蒼々とした平静を装って左右も分からないいたいけな若者たちに教え込むということなのではないのでしょうか。
「考えるとは何か」という疑問をきちんと解決できる学問は、脳科学ではなく情報や数学基礎論だと思っている。
このような思索と行為の相互干渉を自らのうちに抱えたまま生き続けた結果、ようやく自分は何が「純粋な動機」に基づいているのかをよく看取できるようになり、そして限りなく透明に近い心の在り方を律し強いたまま、至る所に遍在するはずの救いを見出していくことこそが私のやりたかったことだと直観しました。私にはもはや人間の能愛も被愛もなければそれらに与するに値するのでもなく、したがっておそらく出家と言って差し支えない行動を実行に移すしかなく、俗世間への憎しみ、かつての私自身の俗っぽさ、そしてありとあらゆる社会やその構成員からの名誉や金や愛に基づいた是認への期待をすべて棄て去る覚悟を一人だけで決めなければならないのでした。——こんなことにも慣れるのだろう (Je m’y habituerai)。これこそフランス風の生活、名誉への小道なのだろう! (Ce serait la vie française, le sentier de l’honneur !)
そもそも一期の月影かたぶきて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向はんとす。何のわざをかかこたむとする。仏の教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草庵を愛するも、閑寂に著するも、さばかりなるべし。いかが要なき楽しみを述べて、あたら時を過さむ。静かなる暁、このことわりを思ひつづけて、みづから心に問ひていはく、世を遁れて山林に交るは、心ををさめて道を行はむとなり、しかるを汝、すがたは聖人にて、心は濁りに染めり、栖はすなはち浄名居士の跡をけがせりといへども、たもつところはわづかに周梨槃特が行にだに及ばず、もしこれ貧賤の報のみづから悩ますか、はたまた妄心のいたりて狂せるか。そのとき心さらに答ふる事なし。ただかたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏両三遍申してやみぬ。