昔、簡単なディベートに参加させてもらったとき、一体どこから議論を始めたらいいのか分からずとりあえず適当なことを言ってお茶を濁した思い出がありました。それ以来ディベートには誘われても乗り気にはならず外野からたまに眺めていたのですが、同じ外野からは「社会的意義を欠いている」「社会への応用が効かない」などという野次を飛ばす人が多いのには少し驚いていました。いや、自分も本当に大昔にはそんなことを言っていたかもしれませんが、年を経るにつれてディベートの競技性を正しく受容し尊重できるようになったからだと思います。というのも、「ディベートがディベートたりうること」と「社会への応用や社会的意義を持つこと」が必然的にトレードオフの関係にあるからです。もし前者を捨ててしまえばそれは単なる「論争」に過ぎないので(論争自体はこの世に腐るほどあるので)わざわざディベートという競技を成立させるためには後者をある程度切り捨てることが必要だということです。
しかし、自分としてはそもそもディベートがディベートたりうるために必須とも言える条件に対して二点だけどことなく不満を抱いていました。一つ目は、論題そのものをひっくり返すことができないだろうということです。この論題そのものをひっくり返すということの好例として永井均『世界の独在論的存在構造: 哲学探究2』からディベート形式に改変して少し引用してみます。
論題 死後も永続する永遠不滅の「自我」というような実体は存在するか?
もし、「死後も永続する永遠不滅の「自我」というような実体は存在しない」と主張するなら、死後には滅するような永遠不滅ではない自我はどうか、と問わねばならない。もしそれもありえないのであれば、「死後も永続する永遠不滅の」は論点に関係していないのでこの議論から除去すべきである。
同じことは「実体」についてもいえる。しばしば「自我という実体は存在しない」とか「実体としての自我はない」などと主張されるが、もしそうであるならば、では実体ではないような自我ならば存在するのか、と問わねばならず、「永遠不滅」の場合と同様、もしそれもまたありえないのであれば、実体性は論点に関係していないのでこの議論から除去されねばならない。
またもし逆に、自我は実体であるがゆえに、実体であるかぎりにおいて、存在できないのであれば、主張点は「実体は存在しない」に移行し、したがって論じるべき主題は「そもそも実体とは何か」に移るであろう。その場合、しかし、「実体」は文法的-論理的な概念であるから、どんな世界観をとるにせよ、その世界を主語-述語形式をそなえた言語で捉えて語る以上、「実体-属性」という形式の存在は前提せざるをえないのではないか、という問題を避けて通ることはできないだろう。
これをあえてディベート形式で解釈すると、いわば永井は Aff 側に立つ “フリ” をしながら論題そのものをぶち壊しに行っているということです。ここでの Neg 側は仏教であり、そして元々は Aff 側の古代インドにおけるバラモン教に対峙していたと言うことができます。
二つ目は、両者が納得する案に合意できたときに両者とも勝ちと判定するルールが一般的にはないことです。これは「折衷案」とは違うものであって、たとえば「この図形は四角か円か?」という論題に対して Aff/Neg が一緒に「これは実は円柱を異なる角度から見たものだ」と合意形成に至ったとき(つまり弁証法的なダイナミズムが生まれたとき)私は両者とも勝ちにするのが適切だと思っています。
という話をディベートに詳しい友人にしてみたところ、二つ目については「折衷案」と「止揚案」を区別するのが難しくディベートの競技性に合わないから、やるとしてもローカルなものになるだろうという旨の話をいただきましたが、一つ目については類似の動きがあるとのことでした。
クリティーク (Kritik) と呼ばれるらしいです。「なんでドイツ語なの?」と訊くと「いや忘れてしまった」と返されたので調べてみると、フランクフルト学派の批判理論に由来しているそうです。なんでやねん。しかし、こんな面白い戦略が出てくるのは面白いですね。僕はそもそも競技性という性質自体が大嫌いなのでプレイヤーになることはないと思いますが、このクリティークがどのように今後発展し受容されていくのかについては非常に強い関心があります。