相対名辞

少し前にある後輩が「他人の家族に対して『父と娘の関係』ということがあるが、これはどこからの視点なんだろうと思うことがある(単に第三者だろと言われたらそうなんだけど)」と述べていたのですが、実は私も十数年前から全く同じ疑問を抱いていたのでランダムハウス英和大辞典をサーフィンしてみると次のような単語が見つかりました。

het·er·on·y·mous [hètərɑ́nəməs|-rɔ́n-]
adj.
1 同じ綴つづりで異音異義の語(heteronym)の.
2 〈相関関係にある一対のものが〉別個の名称を持った(◆son と daughter,wife と husband のような場合)
Father and son are heteronymous relatives.
父と息子とは異なった名称を持つ相対名辞である.
3 〘光学〙 見ている方向と反対側に出現する.
4 〘医学〙 反対側の.

ついでに新英和大辞典 第6版とOED 2nd ed.も見てみました。

2 〈相関関係にあるものなど〉別々の名を持った (cf. homonymous 1).
・Master and servant [Male and female] are heteronymous. 主人と召使[男性と女性]とは異なった名称を持つ相関関係にある.


1 Having different names, as a pair of correlatives, e.g. husband, wife: opp. to synonymous.
1734: Watts Ontology vii, “Synonymous Relatives or of the same Name..Heteronymous or of a different Name.”
1829: Jas. Mill Hum. Mind (1869) II. xiv. 22 “The second class [of relative terms] were called by the ancient logicians heteronymous; we may call them more intelligibly, double-worded relatives.”

しかしこの「相対名辞」という訳語が当てられているということは、おそらく伝統的な文法では実際にこの現象がすでに見出されていたということに違いありません。改めて検索してみると、次のような良い用例がありました。

結果の観念そのものにはまさに原因が含まれているので、全ての結果には必ず原因があるという(第四の)論法は、なおさら取るに足らない。全ての結果は必然的に原因を先に想定する。結果とは原因が相関語である相対名辞なのである。しかしこのことは、全ての存在に原因が先行することを証明しない。例えて言えば、全ての夫には妻がいるのであるから、従って、全ての男は結婚しているに違いないと言うのと同じになる。問題の本来の様相は、全ての事物が存在し始める際に、その存在が原因に負うているかどうかである。これは直感的にも論証的にも確実ではないと結論できる。これまでの論証によって、十分に証明されたことであろう。

They are still more frivolous, who say, that every effect must have a cause, because ’tis imply’d in the very idea of effect. Every effect necessarily pre-supposes a cause; effect being a relative term, of which cause is the correlative. But this does not prove, that every being must be preceded by a cause; no more than it follows, because every husband must have a wife, that therefore every man must be marry’d. The true state of the question is, whether every object, which begins to exist, must owe its existence to a cause; and this I assert neither to be intuitively nor demonstratively certain, and hope to have prov’d it sufficiently by the foregoing arguments.

どうやらこの言葉は伝統的な論理学の術語であるようで、いくつか見当たる限りでは次のような説明がありました。ただし、原文の片仮名書きを平仮名に改め、その他、字体や読点についても一部書き改めました。

絶対名辞とは他の物と比較又は関係をもたずして夫自身の存在を考える事の出来るものを云う、例えば木、家、山等の如きは他のものと比較又は関係によって始めて考えられるものではなく夫自身として考えられるものであるから絶対名辞である。之に反して相対名辞とは他のものとの比較又は関係によって始めて考えられる名辞を云う、例えば父、兄、生徒の如きは子、弟、先生等の関係によって存するものであるから相対名辞である。

相対名辞とは、其名辞の表示する所の物体もしくは性質に対立する他の物体性質の存することを表す名辞なり。父なる語は子なる者の存することを表し、君なる語は臣あることを表するが如し。
絶対名辞とは、他の物体性質の存不存には無関係なる物体性質を表示する名辞なり。家、木、金、太陽、鳥、花等の如し。家と云いて別に何者に対して下したる名にもあらず。木と云い金と云うも同様なり。
此分類も亦た余り精密なる分類にてはあらず。固より思想成立の原則に従えば吾人の智識は凡て諸物の比較よりなりて、何にても一個の物又は性質を知るに其物を其物自身に知ると云うことは出来ず、是非其他の物に比較して異同の点を考察し其何にてあるかを認識するなり。例えば、世界の諸物悉く赤色にてありしならば、吾人は色と云う知覚をば所有せざるべし。世界の諸物悉く同量にてありしならば、重量と云う思想をも所有せざるべし。此故に全く他物に無関係の物質とてはあるべき筈なく、従って此の如き思想の存する筈もなく、即ち真正の絶対名辞とてはあるべからざる理由なれども、論理学に於ては、殊更に或他の格段なる物体若しくは性質の対立を表示する語を指示して相対名辞と云い、別段何とて殊更に対立すべき者を指示せざる語をば絶対名辞と云うなり。

若し茲に一種の事件有りて二人(或は二物)若しくは多数の人(或は物)均しく此の事件に関係し而も之に関係するに就て各々其の分を異にし両方に対立する場合に於いて此の事件に基づきて双方の人(或は物)に与へたる名称を相対名辞と云ふ。之に反して斯かる関係なくして与へられたる名称を絶対名辞と云ふ。(省略)夫婦、君臣、因果等は皆相対名辞なり。(省略)茲に注意すべきことは何れの語も多くは両々相対して用いらるるものなることなり、例へば長短、大小、美醜の如し、美とは醜に対する語、長とは短に対する語なり、美なくんば醜豈に獨り存せん、長なくんば短豈に獨り存するを得ん、されどもこれ等は唯両々相対するに止まり、同一の事実若しくは事件に其の分を異にして関係するにはあらず、故にこれ等をば相対名辞とは云はず。然れども若し二物を比較して一物は他物よりも長しと云ふ時はより長してふ関係に入り来る、二個の物名は相対名辞となる。