橋本進吉「表音的仮名遣は仮名遣にあらず」

前に『橋本進吉博士著作集』を電子化する計画を立ち上げたときに少し進めたのですが、今年の五月から国会図書館が

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という歴史的大偉業を成し遂げたので、橋本進吉博士著作集. 第3冊 (文字及び仮名遣の研究) - 国立国会図書館デジタルコレクションも自宅で読めるようになり、この計画も消滅しました。かといって自分だけで持っておくのも厭なので、「表音的仮名遣は仮名遣にあらず」だけは公開しておこうと思います。


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This work (表音的仮名遣は仮名遣にあらず, by 橋本進吉), identified by 永月杏, is free of known copyright restrictions.

仮名遣といふ語は、本来は仮名のつかひ方といふ意味をもつてゐるのであるが、現今普通には、そんな広い意味でなく、「い」と「ゐ」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」、「お」と「を」と「ほ」、「わ」と「は」のやうな同音の仮名の用法に関してのみ用ゐられてゐる。さうして世間では、これらの仮名による国語のの書き方が即ち仮名遣であるやうに考へてゐるが、実はさうではない。これ等の仮名は何れも同じ音を表はすのであるから、その音自身をどんなに考へて見ても、どの仮名で書くべきかをきめる事が出来る筈はない。それでは仮名遣はどうしてきまるかといふに、実にによつてきまるのである。「愛」も「藍」も「相」も、その音はどれもアイであつて、そのイの音は全く同じであるが、「愛」は「あ」と書き「藍」は「あ」と書き「相」は「あ」と書く。同じイの音を或は「い」を用ゐ或は「ゐ」を用ゐ或は「ひ」を用ゐて書くのは、「愛」の意味のアイであるか、「藍」の意味のアイであるか、「相」の意味のアイであるかによるのである。単なる音は意味を持たず、語を構成してはじめて意味があるのであるから、仮名遣は、単なる音を仮名で書く場合のきまりでなく、語を仮名で書く場合のきまりである。

この事は古来の仮名遣書を見ても明白である。例へば定家仮名遣といはれてゐる行阿の仮名文字遣は「を」「お」以下の諸項を設けて、各項の中にその仮名を用ゐるべき多くの語を列挙してをり、所謂歴史的仮名遣の根元たる契沖の和字正濫鈔も亦「い」「ゐ」「ひ」以下の諸項を挙げて、それぞれの仮名を用ゐるべき諸語を列挙してゐる。楫取魚彦の古言梯にいたつては、多くの語を五十音順に挙げて、一々それに用ゐるべき仮名を示して、仮名遣辞書の体をなしてゐるが、辞書はいふまでもなく語を集めたもので、音をあつめたものではない。これによつても仮名遣といふものが語を離れて考へ得べからざるものである事は明瞭である。

表音的仮名遣といふものは、国語の音を一定の仮名で書く事を原則とするものである。その標準は音にあつて意味にはない。それ故、如何なる意味をもつてゐるものであつても同じ音はいつも同じ仮名で書くのを主義とするのである。「愛」でも「藍」でも「相」でもアイといふ音ならば、何れも「あい」と書くのを正しいとする。それ故どの仮名を用ゐるべきかを定めるには、どんな音であるかを考へればよいのであつて、どんな語であるかには関しない。勿論表音的仮名遣ひについて書いたものにも往々語があげてある事があるが、それは只書き方の例として挙げたのみで、さう書くべき語の全部を網羅したのではない。それ以外のものは、原則から推して考へればよいのである。然るに古来の仮名遣書に挙げた諸語は、それらの語一つ一つに於ける仮名の用法を示したもので、そこに挙げられた以外の語の仮名遣は、必ずしも之から推定する事は出来ない。時には推定によつて仮名をきめる事があつても、その場合には、音を考へていかなる仮名を用ゐるべきかをきめるのではなく、その語が既に仮名遣の明らかな語と同源の語であるとか、或はそれから転化した語であるとかを考へてきめるのであつて、やはり箇々の語に於けるきまりとして取扱ふのである。

以上述べた所によつて、古来の仮名遣は(定家仮名遣も所謂歴史的仮名遣も)仮名による語の書き方に関するきまりであつて、語を基準にしてきめたものであり、表音的仮名遣は仮名による音の書き方のきまりであつて、音を基準としたものである事が明白になつたと思ふ。

それでは仮名遣といふものは何時から起つたであらうか。

普通の仮名、即ち平仮名片仮名は、平安初期に発生したと思はれるが、それ以前にも漢字を国語の音を表はす為に用ゐた事は周知の事実であつて、之を仮名の一種と見て万葉仮名又は真仮名と呼ぶのが常である。この万葉仮名の時代に於ては、国語の音を表はす為に之と同音の漢字を用ゐたのであるから、当時は表音的仮名遣が行はれたといふやうに考へられるかも知れないが、しかしこの時代には仮名として用ゐられた漢字は同音のものであれば何でもよかつたのであつて、それ故、同じ音を表はすのに色々の違つた文字を勝手に用ゐたのである(それは、諸書に載せてある万葉仮名の表に、同じ仮名として多くの文字が挙げられてゐるのを見ても明らかである)。その結果として、同じ語はいつも同じ文字で書かれるのでなく、さまざま違つた文字で書かれて、文字上の統一は無かつたのである(例へば「君」といふ語は「岐美」「枳瀰」「企弭」「耆瀰」「吉民」「伎彌」「伎美」のやうな、色々の文字で書かれて文字に書かれた形は一定しない)。処が、現代の表音的仮名遣に於ては、同じ音はいつも同じ文字で書き、違つた音はいつも違つた文字で書くのが原則であり、従つて文字の異同によつて直に音の異同を知る事が出来るのであるが、上述の如き万葉仮名の用法によつては、異る音は異る文字で書かれてゐるが、同じ音も亦異る文字で書かれる故、文字の異同によつて直に音の異同を判別する事は出来ない。又、万葉仮名の時代には同じ音の文字なら、どんな字を用ゐてもよいのであるから、もし之と同じ原則によるならば、現代に於て、「い」「ゐ」、「え」「ゑ」、「お」「を」はそれぞれ同じ音を表はしてゐる故、「犬」を「いぬ」と書いても「ゐぬ」と書いても、「家」を「いえ」と書いても「いゑ」と書いても(又「いへ」と書いても)、「奥」を「おく」と書いても「をく」と書いても宜しい筈であるが、今の表音的仮名遣では、かやうな事を許さない。さすれば、この時代の万葉仮名の用ゐ方は、現代の表音的仮名遣とは趣を異にするものであるといはなければならない。

勿論万葉仮名の時代に於ても、或種の語に於ては、それに用ゐる文字がきまつたものがある。地名の如きは、奈良朝に於て国郡郷の名は佳字を撰んで二字で書く事に定められたのであつて、その中には「紀伊」、「土佐」、「相模」、「伊勢」等の如く、万葉仮名を用ゐたものがあり、又、姓や人名にもさういふ傾向がかなり顕著であるが、これは特殊の語に限られ、一般普通の語に於ては、同音ならばどんな漢字を用ゐてもよいといふ原則が行はれたものと思はれる。かやうに、同音の文字が万葉仮名として自由に用ゐられ何等の制限もなかつた時代に於いては、どの仮名を用ゐるべきかといふ疑問の起こる事もなく、仮名遣といふやうな事は全然問題とならなかつたと見えて、さういふ事の考へられた痕跡もないのである。

平安朝に入つて万葉仮名から平仮名片仮名が発生して、次第に広く流行するに至つたが、これらの仮名に於ても同音の仮名として違つた形の文字(異体の仮名)が多く、殊に平仮名に於ては多数の同音の文字があつて、それから引続いて今日までも行はれ、変体仮名と呼ばれてゐる。片仮名もまた初の中は、同音で形を異にした文字がかなりあつて、鎌倉時代までもその跡を断たなかつたが、これは比較的早く統一して室町江戸の交にいたれば、ほゞ一音一字となつた。

この片仮名平仮名に於ても、亦万葉仮名に於けると同様、同音の仮名はどれを用ゐてもよく、同語は必ずしもいつも同一の仮名では書かれなかつたのであつて、従つて、仮名の異同によつて直にそれの表はす音又は語の異同を知る事は出来ないのである。しかし、平安朝の初期には「アメツチの詞」が出来、其の後、更に「伊呂波歌」が出来て、之を手習の初に習つたのであつて、これ等のものは、アルファベットのやうに、当時の国語に用ゐられたあらゆる異る音を表はす仮名を集めて詞又は歌にしたものであるから、これによつて、当時多く用ゐられた種々の仮名の中、どれとどれとが同音であり、どれとどれとが異音であるかが明瞭に意識せられ、同音の仮名は、たとひちがつた文字であつても同じ仮名と考へられるやうになつて今日の変体仮名といふやうな考が生じたであらうと思はれる。とはいへ、かやうなものが行はれても、仮名の使用に関して或制限や或特別の規定が出来たのでなく、同音の仮名ならどれを用ゐてもよかつたのであるから、やはり仮名遣の問題は起らなかつたものと思はれる。現に平安朝初期に起つた音変化によつて、ア行のエとヤ行のエとが同音となり、その為「天地の詞」の四十八音が一音を減じて「伊呂波歌」では四十七音になつたけれども、もと区別のあつた音でも、それが同音となつた以上は、もと各異る音をうつした仮名も、同音の仮名として区別なく取扱はれたものらしく、その仮名の遣ひ方については何等の問題も起らなかつたやうである。

然るに鎌倉時代に入ると、はじめて仮名遣といふことが問題になつたのである。仮名文字遣の最初にある行阿(源知行。吉野時代の人)の序によれば、仮名遣の濫觴は行阿の祖父源親行が書いて藤原定家の合意を得たものであるといつてをり、藤原定家の作らしく思はれる下官集の中にも仮名遣に関する個条があつて、先達の間にも沙汰するものが無かつたのを、私見によつて定めた由が見えてゐるのであつて、鎌倉初期に定家などがはじめて之を問題として取り上げて、仮名遣を定めたものと考へられる。

この仮名遣は、「を」と「お」、「ゐ」と「い」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」の如き同音の仮名の用ゐ方に関するものであつて、それらの仮名をいかなる語に於て用ゐるかを示してをり、今日いふ所の仮名遣と全然同じ性質のものである。

この時代になつてどうして仮名遣の問題が起つたかといふに、それは平安中期以後の国語の音の変化によつて、もと互に異る音を表はしてゐたこれらの仮名が同音に帰した為である事は言ふまでもない。しかし、以前の如く、同音の仮名は区別なく用ゐるといふ主義が守られてゐたならば、これ等の仮名が同音に帰した以上は、「を」でも「お」でも、又「い」でも「ゐ」でも「ひ」でも同じやうに用ゐた筈であつて、之を違つた仮名として、区別して用ゐるといふ考が起るべき理由はないのである。もつとも、「を」と「お」、「い」と「ゐ」と「ひ」はそれぞれ違つた文字であるけれども、当時、一般にどんな仮名にも同音の仮名としていろくの違つた文字(異体の仮名)があつて、区別なく用ゐられてゐたのである故、これらの仮名も同音になつた以上は同音の仮名として用ゐて差支なかつた筈である。然るにこれらの仮名に限つて、同音になつた後も仮名としては互に違つたものと考へられたのは、特別の理由がなければならない。私は、この理由を当時一般に行はれてゐた「伊呂波歌」に求むべきだと考へる。即ち、これらは、伊呂波歌に於て別の仮名として教へられてゐた為に、最初から別の仮名だと考へられ、それが同音になつた後もさうした考はかはらなかつたので、同音に対して二つ以上の違つた仮名がある事となり、それ等の仮名を如何なる場合に用ゐるかが問題となつて、こゝに仮名遣といふ事が生じたものと思はれる。

前にも述べた通り、万葉仮名専用時代に於ても、片仮名平仮名発生後に於ても、仮名は音を写す文字として用ゐられた。当時の仮名の遣ひ方は、同音の文字であればどんな文字を用ゐてもよいといふ点で現代の表音的仮名遣とは違つてゐるが、音を写すといふ主義に於ては之と同一である。しかるに、もと違つた音を表はしてゐたいくつかの仮名が同音となつてしまつた鎌倉時代に於て、それらの仮名がやはり仮名としては別々のものであり、随つて区別して用ゐるべきものであるといふ考の下に、その用法を定めようとしたのが仮名遣であるが、この場合に、その仮名を定める基準たるべきものは音そのものに求める事は絶対に不可能であつて(音としてはこれらの仮名は全く同一であつて、区別がないからである)、之を他に求めなければならない。そこで、新に基準として取り上げられたのが語であつて、音は言語に於ては、それぞれ違つた意味を有する語の外形として、或は外形の一部分として、常にあらはれるものである故に、その一々の語について、同音の仮名の何れを用ゐるかをきめれば、一定の語には常に一定の仮名が用ゐられて、仮名の用法が一定するのである。かやうに仮名遣に於て仮名の用法を決定する基準が語であつた事は、下官集に於ても仮名文字遣に於ても、各の仮名の下に、之を用ゐるべき語を挙げてゐるによつても知られるが、また、源親行が父光行と共に作つた源氏の注釈書「水原抄」の中の左の文によつても了解せられる。

真字は文字定者也。仮字は文字づかひたがひぬれは義かはる事あるなり水原(河海抄巻十二梅枝「まむなのすゝみたるほどにかなはしとけなきもじこそまじるめれとて」の条に引用したものによる)

これは、「漢字は語毎に用ゐる文字がきまつてゐる。仮名は音に従つて書けばよいやうに思はれるけれども、その文字遣、即ち仮名遣を誤るとちがつた意味になる事がある」と解すべきであらう(源氏の原文の意味はさうではあるまいが、光行はさう解釈したと見られる)。仮名遣を誤つた為に他の意味になるといふのは、同音の仮名でも違つた仮名を用ゐれば、別の語となつて、誤解を来す事がある事を指していふのであつて、かやうに、仮名遣を意味との関聯に於て説いてゐる事は、仮名は語によつて定まるもの、即ち仮名の用法は語を基準とすると考へてゐた事を示すものである。

それでは、仮名遣に於けるかやうな主義は定家などが全く新しく考へ出したものかといふに、必ずしもさうではあるまいと思はれる。全体、当時の仮名遣が、何を拠り所として定められたかについては、仮名文字遣は何事をも語つてゐないが、下官集には「見旧草子見之」とあつて、仮名文學の古写本に基づいてゐる事を示してゐる。古写本といつても何時代のものか明かに知る由もないが、平安中期以後、国語の音変化の結果として、もと区別のあつた二つ以上の音が同音となり、之をあらはした別の仮名が同音に読まれるやうになつたが、音と文字とは別のものである故、かやうに音がかはつた後も、仮名(ことに仮名ばかりで書く平仮名)はもとのものを用ゐる傾向が顕著であつて、時としては同音の他の仮名を用ゐる事があつても、大体に於て古い時代の書き方が保存せられてゐた時代がかなり永くつゞいたものと考へられる。しかるに時代が下つて鎌倉時代に入ると、その実際の発音が同じである為、同音の仮名を混じ用ゐる事が多くなり、同じ語が人によつて違つた仮名で書かれて統一のない場合が少くなかつたので、古写本に親しんだ定家は、前代にくらべて当時の仮名の用法の混乱甚だしきを見て、これが統一を期して仮名遣を定めようとしたものと思はれる。

さて、右の如く、もと異音の仮名が同音になつた後も、なほ書いた形としてはもとの仮名が保存せられて、他の同音の仮名を用ゐる事が稀であつたのは、何に基づくのであらうか。これは、もと違つてゐた音が、同音になつた後にもなほ記憶せられてゐた為とはどうしても考へられない。既に音韻変化が生じてしまつた後にはもとの音は全然忘れられてしまふのが一般の例であるからである。これは、古写本の残存又はその転写本の存在などによつて仮名で写した語の古い時代の形が之を読む人の記憶にとゞまつてゐた為であるとしか考へられない。即ち、古く仮名で書いた或語の形は、後に同音になつた仮名でも、その中の或一つのものに定まつてゐた為、その語とその仮名との間に離れがたき聯関を生じて、自分が新に書く場合にも、その語にはその仮名を用ゐるといふ慣習がかなり強かつたのであると解すべきであらう。さすれば、明瞭な自覚はなかつたにせよ、既にその時分から、語によつて仮名がきまるといふ傾向があつたとしなければならないのである。

一般に文字を以て言語を写す場合に、いかなる語であるかに従つて(たとひ同音の語でも意味の異るに従つて)之に用ゐる文字がきまるのは決して珍らしい事ではなく、表意文字たる漢字に於てはむしろその方が正しい用法である。漢語を表はす場合は勿論のこと(同じコーの音でも、「工」「幸」「甲」「功」「江」「行」「孝」「効」「候」など)漢字を以て純粋の国語を表はす場合にもさうである。(「皮」と、「河」、「橋」と「箸」、「琴」と「事」と「言」など)唯、漢字を仮りて国語の音を表はす場合(万葉仮名)はさうでなく、同じ語を種々の違つた文字で表はす事上述の如くであるが、この場合には漢字が語を表はさず音を表はすからであつて、しかも、さういふ場合にも、或特殊の語(地名、姓、人名など)に於ては語によつて之を表はす文字が一定する傾向があつた事、これも上に述べた通りである。仮名の場合は漢字とは多少趣を異にし、同音の仮名は、文字としては違つたものであつても同じ仮名と見做す故、同じ語をあらはす文字の形は必ずしも常に一定したものではないけれども、或語のオ音には常に「を」(又は之と同じ仮名)を用ゐて、「お」又は「ほ」の仮名(又はそれらと同じ仮名)を用ゐないといふ事になれば、その語と「を」(及び之と同じ仮名)との間には密接な関係を生じて、その仮名でなければ直にその語と認めるに困難を感じ、又は他の語と誤解するやうになるのは自然である。

かやうに一方に於て漢字が語によつて定まるといふ事実があり、又一方に於て、仮名で書く場合にも、同音でありながら違つたものと認められた仮名は、語によつてその何れか一つを用ゐる傾向があつたとすれば、新に仮名遣の問題が起り、かやうな同音の仮名の用法の制定が企てられた場合に、語を基準とするのは最自然なことといはなければならない。(音を基準にしようとしても不可能な事は前述の通りである)。

以上述べ来つた如き事情と理由とによつて、仮名遣といふものは、それが問題となつた当初から、問題の仮名を、語を表はすものとして取扱つて来たのであり、その場合に仮名を定める基準となつたものは、単にどんな音を表はすかでなく、更にそれより一歩を進めた、どんな語を表はすかに在つたのである。

かやうにして、万葉仮名の時代から平仮名片仮名発生後に至るまで、純粋に音をあらはす文字としてのみ用ゐられて来た仮名は、少くとも仮名遣という事が起つてからは、単なる音を表はす文字としてでなく、語を表はす文字として用ゐられ、明かにその性格を変じたのである。(但し、この時からはじめて語を表はす文字となつたか、又はもつと前からさうなつてゐたかは問題であつて、前に述べた所によれば、少くとも仮名遣に関係ある問題の仮名については以前よりそんな傾向はあつたとするのが妥当なやうであり、その他の仮名については明瞭な証拠が無いからわからないが、やはりそんな性質のものと考へられるやうになつてゐたかも知れない。同じ音の仮名ならどんな仮名を用ゐてもよいからといつて、それ故、音を表はすだけのものであると速断するのは危険である。何となれば、万葉仮名の時代と違つて「天地」の詞や「伊呂波」のやうなものが行はれてゐた時代には、それの中に現はれた仮名だけが代表的のものと認められ、これと違つた仮名は今の変体仮名と同じく、代表的の仮名と全く同樣なものと考へられ、従つて、仮名で書いた語は、たとひ仮名としての形は違つてゐても、或一定の仮名で書かれてゐると考へた事もあり得べきであるからである)。

かやうに、仮名遣に於ては、その発生の当初から、仮名を単に音を写すものとせずして、語を写すものとして取扱つてゐるのである。さうして仮名遣のかやうな性質は現今に至るまでかはらない事は最初に述べた所によつて明かである。然るに今の表音的仮名遣は、専ら国語の音を写すのを原則とするもので、仮名を出来るだけ発音に一致させ、同じ音はいつでも同じ仮名で表はし、異る音は異る仮名で表はすのを根本方針とする。即ち仮名を定めるものは語ではなく音にあるのである。これは、仮名の見方取扱方に於て仮名遣とは根本的に違つたものである。かやうに全く性質の異るものを、同じ仮名遣の名を以て呼ぶのは誠に不当であるといはなければならない。これは発生の当初から現今に至るまで一貫して変ずる事なき仮名遣の本質に対する正当な認識を欠く所から起つたものと断ぜざるを得ない。

表音的仮名遣は、音を基準とし、音を写すを原則とするものであるとすれば、一種の表音記号と見てよいものである。表音記号は、言語の音を目に見える符号によつて代表させたもので、同じ音はいつも同じ記号で、違つた音はいつも違つた記号で示すのを趣旨とする。さうして、表音記号を制定するについては、実際耳に聞える現実の音(音声)を忠実に写すものや、正しい音の観念(音韻)を代表するものなど、種々の主義があり、又、ローマ字仮名など既成の文字を基礎とするものや、全然新しい符号を工夫するものなど種々の方法があるが、その中、仮名に基いて国語の音韻を写す表音記号は、その主義に於ても方法に於ても、表音的仮名遣と全然合致するものである。それ故表音的仮名遣はその実質に於ては一種の表音記号による国語の写し方と見得るものであり、又それ以外にその特質は無いものである。勿論表音的仮名遣は、実用を旨とするものである故、必ずしも精細に国語の音を写さず、又その写し方に於ても多少曖昧な所もあつて、表音記号としては不完全であるが、表音記号でも、実用を主とした簡易なものもあるのであるから、かやうな故を以て表音記号とは全然別のものであるといふ事は出来ない。しかし表音的仮名遣を実際に行ひ世間通用のものとする為には、従来の仮名遣と妥協しなければ不便多く、その目的を達し難い憂がある為に、これまで提出された表音的仮名遣には、従来の仮名遣に於ける用法を加味したものがある。例へば大正十三年十二月臨時国語調査会決定の仮名遣改定案に於ては、助詞のハ・ヘ・ヲに限り従来の仮名遣を保存した如きはその例であつて、この場合には、その音によらず、如何なる語であるかによつて仮名を定めたのである。それ故、この部分だけは仮名遣といふ事が出来ようが、これは二三の語のみに限つた例外的のものである。これだけが仮名遣であるからといつて、全部を仮名遣といふのは勿論不当である。

右のやうな論に対して或はかういふ説を立てるものがあるかも知れない。

表音的仮名遣は、例へば同音の仮名「い」「ゐ」「ひ」に対してその中の「い」を用ゐ、「え」「ゑ」「へ」に対してその中の「え」を用ゐるなど、同音の仮名がいくつかある中でその一つに一定したものであつて、仮名遣に於て、同音の仮名の中、この仮名はどの語に用ゐるといふやうに、その仮名の用法を一定したのと同様である。それ故、これも仮名遣と呼んで、差支へないではないかと。

この説は当らない。表音的仮名遣に於ては、いくつかの同音の仮名の中、一つだけを用ゐて他は用ゐないのを原則とする(これは同じ音はいつも同じ仮名で書くといふ主義からいへば当然である)。然るに仮名遣では、同音の仮名はすべて之を用ゐて、それぞれいかなる場合に用ゐるかをきめたのである。この事は実に両者の間の重大な相違であつて、仮名遣といふ問題の起ると起らないとの岐れるのは懸つて此処にあるのである。前にも述べた通り仮名は最初から、同音の文字ならばどんな文字でもその音を表はす為に区別なく用ゐられた。もしこの主義がいつまでも引続いて行はれたならば、「い」も「ゐ」も「ひ」も同じイ音になつてしまつた時代では、「い」「ゐ」「ひ」は同音異体の同じ仮名として区別なく用ゐられ、それ等の仮名の用法については何等の疑問も起らず、仮名遣といふ事が問題になる事はなかつたであらう。右のやうな仮名の用法は、表音的仮名遣に於ける仮名の用法に近いものではあるが、まだ之と全く同じではない。何となれば「い」「ゐ」「ひ」をイ音を表はす同じ仮名とみとめてその中の何れを用ゐてもよいといふのは、表音的仮名遣に於てイ音を表はすに「い」を用ゐて「ゐ」「ひ」を用ゐないといふのと同じくないからである。しかし、かやうな仮名の用法を整理して、一つの音にはいつも同じ一つの仮名を用ゐる事にすれば、イ音を表はす「い」「ゐ」「ひ」は「い」で書く事になつて、表音的仮名遣と全然同一になる。かやうな整理は、普通の仮名に於て、同音の変体仮名を整理して唯一つのものに定めると全く同性質のもので(カ音には「か」を、キ音には「き」を用ゐて、他の変体仮名を用ゐないのと同様である)仮名遣に於ける仮名の取扱方とは全然別種のものである。もし、実際に於て仮名の用法がこんな方向に進んだのであつたならば、今普通いふやうな意味に於ける仮名遣といふ事は起らなかつたであらう。然るに事実に於ては、前述の如く「い」「ゐ」「ひ」等の仮名が同音になつた後も、猶これ等の仮名は文字としては別の仮名と考へられてゐたのであつて、そこで、それらの仮名をどう用ゐるべきかといふ疑問がおこり、こゝにはじめてこれらの仮名の用法即ち仮名遣が問題になつたのである。もしこの場合に、これ等の仮名はすべて同音であつて、その中の一つさへあれば音を表はすには十分である故、一つだけを残して其他のものを廃棄したとしたならば、仮名はどこまでも音を表はすものとして存続したであらう。然るに、当時に於ては、国語の音をいかなる仮名によつて表はすかといふ事が問題となつたのでなく、もとから別々の仮名として伝はつて来た多くの仮名の中に同音のものが出来た為、それを如何に区別して用ゐるかといふ事が問題となつたのである。それ故、同音のものを廃棄するといふやうな事は思ひも及ばなかつたであらう。即ち仮名遣は最初から同音の仮名のつかひわけといふ問題がその本質をなしてゐるのであり、従つて之を定める基準としては語によらざるを得なかつたのである。さすれば、同音の他の仮名を廃して、音と仮名とを一致させようとする表音的仮名遣は、仮名遣とはその根本理念に於て非常な差異があるもので、決して之を同視する事は出来ないのである。

かやうに考へて来ると仮名遣と表音的仮名遣とは互に相容れぬ別個の理念の上に立つものである。仮名遣に於ては、違つた仮名は、それぞれ違つた用途があるべきものとし、たとひ同音であつても別の仮名は区別して用ゐるべきものとするに対して、表音的仮名遣に於ては仮名は正しく言語の音に一致すべきものとし、同音に対して一つ以上の仮名の存在を許さないのである。もし同音の仮名の存在を許さないとすれば、仮名遣はその存立の基礎を失ひ雲散霧消する外ない。即ち、表音的仮名遣は畢竟仮名遣の解消を意図するものといふべきである。然るに之を仮名遣と称するのは、徒に人を迷はせ、仮名遣に対する正当なる理解を妨げるものである。

以上述べたやうに、仮名遣と表音的仮名遣とはその根本の性格を異にしたものであつて、仮名遣に於ては仮名を語を写すものとし、表音的仮名遣に於ては之を専ら音を写すものとして取扱ふのである。語は意味があるが、個々の音には意味無く、しかも実際の言語に於ては個々の音は独立して存するものでなく、或る意味を表はす一続きの音の構成要素としてのみ用ゐられるものであり、その上、我々が言語を用ゐるのは、その意味を他人に知らせる為であつて、主とする所は意味に在つて音には無いのであるから、実用上、語が個々の音に対して遥に優位を占めるのは当然である。さすれば、仮名のやうな、個々の音を表はす表音文字であつても、之を語を表はすものとして取扱ふのは決して不当でないばかりでなく、むしろ実用上利便を与へるものであつて、文字に書かれた語の形は、一度慣用されると、全体が一体となつてその語を表はし、その音が変化しても、文字の形は容易にかへ難いものである事は、表音文字なるラテン文字を用ゐる欧洲諸国語の例を見ても明白である。かやうな意味に於て語を基準とする仮名遣は十分存在の理由をもつものである。

しかしながら、仮名遣では十分明瞭に実際の発音を示し得ない場合がある故、私は、別に仮名に基づく表音記号を制定して、音声言語や文字言語の音を示す場合に使用する必要ある事を主張した事がある(昭和十五年十二月「国語と国文学」所載拙稿「国語の表音符号と仮名遣」)。然るに右のやうな表音記号としては、一二の試案は作られたけれども、まだ広く世に知られるに至らないが、表音的仮名遣は、前述の如く、その実質に於て仮名を以てする国語の表音記号と同樣なものであり、表音記号としてはまだ不十分な点があつても、それは必要な場合にも多少の工夫を加へればもつと精密なものともなし得るものであり、その上、臨時国語調査会の案の如き、多くの発音引国語辞書に於て発音を表はす為に用ゐられて比較的よく世間に知られてゐるものもある故、之を簡易な表音記号に代用するのも一便法であらう。但しその為には、表音主義を徹底させて、仮名遣による規定を混入した部分は全部除去する事が必須であり、又名称も仮名遣の名は不当である故、明かに表音記号と称するか、少くとも簡易仮名表記法とでも改むべきである。

表音的仮名遣に於て見る如き、仮名遣を否定する考は、古く我国にも全くないではなかつたが、今世間に行はれてゐる、歴史的ヒストリカル仮名遣スペリング及び表音的フォネテイク仮名遣スペリングの名は、英語に於ける歴史的綴字法及び表音的綴字法から出たもので、仮名遣を綴字法と同樣なものと見て、かく名づけたのである。然るに綴字法は歴史的のものも表音的のものも、共に語の書き方としてのきまりであつて、かやうな点に於て、語を基準とする仮名遣とは通ずる所があつても、音を基準とする表音的仮名遣とは性質を異にするものといはなければならない。私は従来世間普通の称呼に随つて表音的仮名遣をも仮名遣の一種として取扱つて来たのであるが、今回新に表音的仮名遣に対する考察を試みて、その本質を明かにした次第である。