読書録:団藤重光『法学の基礎 第2版』

少し前に刑法を勉強しておきたいなあと友人に言ってみると団藤重光『法学の基礎 第2版』を薦められたので、わずかばかりに出来た暇を使って読んでみることにした。その少し前に立ち読みしたときに非常に面白そうだという印象を受けたので、ハードルもその分低くはなっていたわけである。

私は法学に全く詳しくなく(だからこそこの本を読むに至ったわけだが)、たとえば「公序良俗」が「の秩」と「善の風」に由来していることをこの本を読んで初めて知った。

公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。(民法90条)

ちなみに、この条文が引かれている p. 16 では改正前の「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする」となっている。したがって p. 17 の

条文の上では公序良俗違反の事項を「目的」とする法律行為という表現が使われているが、実質的に、その法律行為が全体としてみて公序良俗違反とみとめられれば、これにあたるものと解される。

という記述はある意味では不要になったというべきか、あるいはなぜ如上の改正がなされたのかをよく説明してくれる。

この調子で私の無知を晒していくことにしよう:p. 19 には

同性愛などは、外国ではこれを処罰にしているところがすくなくないが、日本では、明治初年には鶏姦条例〔原注:もっとも鶏姦条例の実際の運用としては、本来の同性愛的な行為よりも、現行法でいえば幼児に対する強制猥褻罪にあたるような形態のものが、これによって処罰されているようである(団藤『刑法綱要・各論』三版・一九九〇年・三一一頁参照)。〕のような例外があったけれども、現在では、これを完全に社会道徳にゆだねている。

という記述があるが、そもそも「鶏姦」という語を生まれて初めて目にした上に、それも男性同士の同性愛に限られているという点で極めて興味深いと感じられた。どうやら、男性同士の肛門性交を、ニワトリが直腸・排尿口・生殖口を兼ねる総排出腔を有していることに準えているらしい。ニワトリなんて全く見たことがなかったし、いわんや交尾の様子という激レアイベントを目撃するほどの運など持ち合わせていなかったから、昔の人の暮らしにとっていかにニワトリの交尾が身近な現象であったかを痛感させられた。

それにしても、法学の人々は世界をこのように捉えているのかというのが垣間見えることに対する驚きがここまで大きく得られるとは思わなかった。あるいはもちろん、私があまりに法学的な思考を持たなかった「天然」のタイプであるという可能性はある(かなりある)が、それでも人並みにはあると自負してはいる。たとえば p. 18 には

人工授精は、夫の同意なしに夫以外の男子のものを用いたばあいにも、離婚原因としての不貞な行為とはならないとされる。

という記述があり、どうやら「我妻栄『親族法』(一九六一年)二三〇頁」にそのような議論があるようだが(私はチェックしていない)、そもそもそのような着眼点に至ること自体に何だかえも言われぬ感動と安堵を覚えた。そしてどうやら、このことは実際に東京地裁平成24年11月12日で争われたとのことだが(私はチェックする術を知らない)、もしそれが本当なら法学とはまことに実学なのだなあという気分を再補強してくれるような気がした。

「事実たる慣習」と「慣習法」は民衆の法的確信(Rechtsüberzeugung、「『ある一定の事項について紛争がおこったときはこの慣習によって解決されることになるのだ』という意識」)という社会心理的な要素の有無で区別されると p. 27 には書かれているが、p. 189 には「かような法的確信を獲得するにいたっていない慣習でも、制定法によって法的性格を承認されるとき」にはその慣習が慣習法になると書かれている。つまり、たとえば入会権(民法263条・294条)は各地方の「慣習」に従うとされており、これは一般的には慣習法を指すものとされているが、いちいち法的確信の裏づけをたしかめなければならないはずがないので、この規定によって事実たる慣習に法的性格が付与されたと考えるべきだということである。

pp. 85-86 には、不法原因給付と横領罪に関する見解が示されている。このような話が思考実験の範疇を超えずに、実際に裁判所で争われたという事実に改めて感動する。

民法(七〇八条)に不法原因給付の規定があることは、前にも述べた。不法原因給付のばあいには、その給付を受けた者はその物を返さなくてよい。返せばそれは有効だが、相手は裁判所に訴訟を提起してまで返還を請求することはできないことになっている。つまり、裁判所は民事事件としてその返還に手を貸さないたてまえなのである。ところで、たとえば、AがBに対して、公務員Cに贈賄してくれといって金品を委託したところが、Bがその金品をCに贈賄しないで自分で費消してしまったとしよう。これが横領罪(刑法二五二条)を構成するかどうかが問題となるわけである。民法と刑法とは目的がちがうのだから、民法上は返す義務がなくても、刑法上は、委託された物を領得すれば横領罪になるというのもひとつの見方である。現に判例は、古くからそういう見解をとっており、これに賛成する学説が多いが、ここに述べたような見地から考えると、これは問題である。民法上返還義務のない者に、刑罰の制裁をもって返還——すくなくとも処分をしないこと——を強制するのは、裁判所が民事以上の強力な手段をもって、返還に手を貸してやることになる。これは法秩序全体の統一を破るものといわなければならない。わたくしは、かようなばあいには横領罪の成立は否定されるべきだと考えている。

pp. 98-99 には、COVID-19 に伴うロックダウンが検討された際に論点となった事項についての記述がある。

たとえば、旧憲法のもとでは所有権の不可侵がみとめられていたが、公益のため必要な処分は法律でどのように定めることもできた(旧憲法二七条)。これは所有権法の社会化の重要な拠点をなすものであったが、その行きすぎをも可能ならしめた。現行憲法(二九条三項)は、私有財産を公共のために用いることを認めるが、「正当な補償」を要件としている……何が公共の福祉なのかは決して自明でないから、そのことじたいが争われると同時に、正しい意味での公共のためであっても「正当な補償」を求めることは当然なのである。

pp. 243-245 には、「世界が滅びるとも正義は行われるべきだ(Fiat justitia, pereat mundus)」という問題が扱われているが、ここで面白いのはカントやヘーゲルやイェーリングがどう考えたかなどということではなく、むしろリンカーンのトーニーに対する are all the laws but one to go unexecuted, and the government itself go to pieces lest that one be violated? と松方正義の児島惟謙に対する「法律の解釈は然らん。然れども、国家存在して始めて法律存在し、国家存在せずんば法律も生命なし。故に、国家ありての法律なり。法律は国家よりも重大なるの理由なし。国家一旦の大事に臨みては、区々の文字論に拘泥せずして、国家生存の維持を計るべし」が並べられているところである。

他の部分は、すでに知っていたことか、あまり面白くないことか、教科書的に重要な事実だが面白さがあるかというと微妙なことかのいずれかだったので、ここでは省いた。最後に、本書で一番面白いと思った部分を引用してこの読書録を締めておこう。

道徳の内面性、法の外面性から、法は個人の純然たる内心のことに介入してはならないという原理が導かれる。のちに述べるように、法においても内心のことが問題とされないわけでは決してないが、それはなんらかの外面に現れた行為と結びつくかぎりにおいてである。刑法に不敬罪の規定——昭和二二(一九四七)年の刑法の一部改正で削除された——があったころ、自分の日記に不敬の記載をしていたのが発覚して不敬罪に問われた事件があった。日記は他人に読ませるためのものではないから、これは不敬罪の規定の解釈論として疑問であり、学説の多くがこれに反対したのは当然であった。しかし、このばあいは、ともかくも日記に書くという行為があったのだから、単なる内心の事実を処罰したということにはならない。これに反して、徳川時代におけるキリシタン宗の禁止は、宗教的行事だけでなく信仰そのものに介入したのであった。信者であるかどうかをためすために、踏絵が行なわれたが、聖像を踏まないという一種の不作為犯をみとめたのではなく、キリシタンの信仰をもっているというそのことじたいを罪として罰したのであった。これは信教の自由の見地からみても不当であるが、さかのぼって、単なる内心のことに法が介入した点で、すでに、近代法の原理とまったく相容れないものであった。

絵踏の法学的な解釈!