東京大学言語学研究室の大学院博士課程の専門科目問題の 2017-3 は、三つの言語群の系統関係を語彙セットの比較によって論じる比較言語学の問題です。
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問題
言語群の中には、系統関係が明らかなものから、系統関係の有無について専門家の意見が分かれるものまであることが知られている。次の (a) (b) (c) 3つの言語群の語彙セットそれぞれについて、特に太字で示した音に着目して、それぞれどのような言語群と考えられるか、根拠を示しつつ論じなさい。転写は IPA に拠る。なお引用する語形は、必ずしも実在の言語のものとは限らない。
(a) | 言語 A | 言語 B | 言語 C |
---|---|---|---|
少女 | gɨz | qɨð | kɨz |
耳 | gulak | qolaq | kulak |
腹 | garɨn | qarɨn | karɨn |
魚 | balɨk | balɨq | balɨk |
白い | ak | aq | ak |
(b) | 言語 D | 言語 E | 言語 F |
---|---|---|---|
上 | -pe | fok | -pʰuk |
腕 | apige | poxja | puku |
苦い | pag | behtʃi | maːka |
兄 | vojit | pera | apo |
灰 | mok | bura | mupag |
(c) | 言語 G | 言語 H | 言語 I |
---|---|---|---|
5 | pente | hing | fimf |
父 | pateːr | hayr | fadar |
火 | puːr | hur | foːr |
去年 | perusi | heru | fert |
辿る | pateoː | hun(渡し場) | finθan |
(a)
「少女」「耳」「腹」「魚」「白い」はいずれも基礎語彙であると考えられ、これらの語に関して言語 A・言語 B・言語 C のあいだには、
- 母音の前の子音に関して g : q : k
- それ以外の子音に関して z : ð : z および k : q : k
- 母音に関して u : o : u
という対応が認められ、これら以外の音はすべて一致しているので、系統関係が明らかにあると考えられる。したがって、言語 A・言語 B・言語 C の祖語 α と、言語 A・言語 C の祖語 β が次のように再構でき、
祖語 α, β | |
---|---|
少女 | *kɨz |
耳 | *kulak |
腹 | *karɨn |
魚 | *balɨk |
白い | *ak |
それぞれの段階に起こった変化規則が次のようになると考えられる。
- 祖語 α から言語 B への段階:
- 口蓋垂化:[+高段性, +後方性] → [-高段性]
- ð削除:[+粗擦性] → [-粗擦性]
- 祖語 β から言語 A への段階:
- 逆行同化:[-有声性] → [+有声性] / __V
実際には、言語 A はトルクメン語、言語 B はバシキール語、言語 C はトルコ語であり、いずれもチュルク語族に属する。トルクメン語とトルコ語はオグズ語群に属し、バシキール語はキプチャク語群に属する。
(b)
「上」「腕」「苦い」「兄」「灰」はいずれも基礎語彙であると考えられるが、これらの語に関して言語 D・言語 E・言語 F のあいだには対応も類似性も一切認められず、系統関係があるとは想定できない。
実際には、言語 D の apige がトバ語(アルゼンチン北部)、言語 E の poxja は孤立した言語のクイトラテック語(メキシコ南部)、言語 F の puku は孤立した言語のサリナ語(カリフォルニア州南部)であることは判明したが、それ以外の語は特定できなかった。たとえば、言語 D の pag「苦い」と言語 F の mupag「灰」の形式的・意味的類似性などを鑑みるに、少数言語をいくつか選んでから順番を混ぜているのではないかと予想される。
(c)
言語 G が古代ギリシア語、言語 I が(ドイツ語との類似性を考えて)ゲルマン祖語であることがわかる。実際、両者にはグリムの法則として無声閉鎖音と無声摩擦音の対応 p : f および t : θ が(ヴェルナーの法則による例外 fadar を除いて)認められる。
また、「5」「父」「火」「去年」「辿る」はいずれも基礎語彙であると考えられ、これらの語に関して古代ギリシア語・言語 H・ゲルマン祖語のあいだに頭子音に関して p : h : f という対応が認められ、これら以外の音はおおむね類似しているので、言語 H にも古代ギリシア語やゲルマン祖語との系統関係があると考えられる。
このとき、グリムの法則の類似 *p → h が印欧祖語から言語 H までへのどこかの段階でグリムの法則 *p → f と独立に起こったという仮説は、他の実質的に可能な仮説 *p → h → f および *p → f → h などに比べてはるかに尤もらしい。古代ギリシア語とゲルマン祖語が互いに異なる語派に属していたことを考えると、
- 言語 H も古代ギリシア語もゲルマン祖語もすべて違う語派であるか、
- 言語 H と古代ギリシア語は同じ語派だが、ゲルマン祖語は違う語派であるか
のいずれかである。このデータだけからは、どちらが尤もらしいのかを有意に比較することはできない。
実際には言語 H は古代アルメニア語であり、仮説 2 に基づく古代ギリシア語との語派はギリシア・アルメニア語派 (Graeco-Armenian) と呼ばれている。この存在はまだ共通見解には至っていないが、比較的有力な仮説として受け入れられているようである。