問題
以下は、Kurt Gödel が 1931 年に出版した論文 Über formal unentscheidbare Sätze der Principia mathematica und verwandter Systeme I の第三段落です(ただし、ゲーデル全集を底本としたうえで、いくつかの致命的な誤植を修正してあります)。下線部はどのように訳してよいでしょうか?
Eine Formel aus $PM$ mit genau einer freien Variablen, und zwar vom Typus der natürlichen Zahlen (Klasse von Klassen) wollen wir ein Klassenzeichen nennen. Die Klassenzeichen denken wir uns irgendwie in eine Folge geordnet,11 bezeichnen das $n$-te mit $R(n)$ und bemerken, daß sich der Begriff “Klassenzeichen” sowie die ordnende Relation $R$ im System $PM$ definieren lassen. Sei $\alpha$ ein beliebiges Klassenzeichen; mit $[\alpha; n]$ bezeichnen wir diejenige Formel, welche aus dem Klassenzeichen $\alpha$ dadurch entsteht, daß man die freie Variable durch das Zeichen für die natürliche Zahl $n$ ersetzt. Auch die Tripel-Relation $x = [y; z]$ erweist sich als innerhalb $PM$ definierbar. Nun definieren wir eine Klasse $K$ natürlicher Zahlen folgendermaßen: $$n\ \epsilon\ K\equiv\overline{Bew}[R(n); n]$$ (wobei $Bew\ x$ bedeutet: $x$ ist eine beweisbare Formel).11a Da die Begriffe, welche im Definiens vorkommen, sämtlich in $PM$ definierbar sind, so auch der daraus zusammengesetzte Begriff $K$, d. h. es gibt ein Klassenzeichen $S$,12 so daß die Formel $[S;n]$ inhaltlich gedeutet besagt, daß die natürliche Zahl $n$ zu $K$ gehört. $S$ ist als Klassenzeichen mit einem bestimmten $R(q)$ identisch, d. h. es gilt $$S=R(q)$$ für eine bestimmte natürliche Zahl $q$. Wir zeigen nun, daß der Satz $[R(q); q]$ in $PM$ unentscheidbar ist.13 Denn angenommen der Satz $[R(q);q]$ wäre beweisbar, dann wäre er auch richtig, d. h. aber nach dem obigen $q$ würde zu $K$ gehören, d. h. nach (1) es würde $\overline{Bew}[R(q); q]$ gelten, im Widerspruch mit der Annahme. Wäre dagegen die Negation von $[R(q);q]$ beweisbar, so würde $\overline{q\ \epsilon\ K}$, d. h. $Bew[R(q);q]$ gelten. $[R(q);q]$ wäre also zugleich mit seiner Negation beweisbar, was wiederum unmöglich ist.
11Etwa nach steigender Gliedersumme und bei gleicher Summe lexikographisch.
11aDurch Überstreichen wird die Negation bezeichnet.
12Es macht wieder nicht die geringsten Schwierigkeiten, die Formel $S$ tatsächlich hinzuschreiben.
13Man beachte, daß “$[R(q);q]$” (oder was dasselbe bedeutet “$[S;q]$”) bloß eine metamathematische Beschreibung des unentscheidbaren Satzes ist. Doch kann man, sobald man die Formel $S$ ermittelt hat, natürlich auch die Zahl $q$ bestimmen und damit den unentscheidbaren Satz selbst effektiv hinschreiben.
経緯
上記の本の Amazon レビューに、次のような感想が寄せられていました(原論文の引用は間違っているので私の方で正しく直しています)。
(3) 翻訳は分かりやすいとは言えない。誤訳もある。
たとえば
命題 $[R(q);q]$ が証明可能ならば、それは正しいので、上記の $q$ が $K$ に属すことになり、(1)により $\overline{Bew}[R(q);q]$ が成り立つことになる。しかし、これは仮定に矛盾するのである。(p. 19)
の「正しいので、上記の $q$ が $K$ に属すことになり」の部分。論理に敏感な読者はここで迷うだろう。疑問は当然である。原文には「しかし」の意味のaberが入っている。くどく訳すならば
もしも命題 $[R(q);q]$ が証明可能だとすれば、その場合命題は正しくもあるのだが、しかし上述のように $q$ は $K$ に属するので、(1)により $\overline{Bew}[R(q);q]$ となって仮定に矛盾することになる。
である。原文は次のとおりである。
Denn angenommen der Satz $[R(q);q]$ wäre beweisbar, dann wäre er auch richtig, d. h. aber nach dem obigen $q$ würde zu $K$ gehören, d. h. nach (1) es würde $\overline{Bew}[R(q); q]$ gelten, im Widerspruch mit der Annahme.
$Bew\ x$ は $x$ が証明可能、$\overline{Bew}\ {x}$ はその否定である。誤訳の原因は逆接のaberの見落としとnach dem obigenが $q$ を修飾すると誤解したためだろう。だがその文が成立するなら、そこに主語のない文が現れることになる。翻訳文の論理が矛盾していることに気付かなかったのだろうか。
魚拓を見てみると、訳者の一人である林晋氏との直接の応酬がなされているので、議論に関係ある部分を(読みやすい形に編集したうえで)抜粋します。
nach dem obigen は、現代では nach dem Obigen とかかれ、obigen は形容詞の名詞化です。つまり、これは「上記のことから」という意味で、直訳では「上記のことより、$q$ は $K$ に属す」になります。
存じています。ドイツ語の論文は30報程度読みました。現代の研究者にしては多い方かと思います。それで「上述のように」と訳しました。林さんがなぜ「上記の $q$」と訳したかの理由を考えobigenが $q$ を修飾すると誤解したのではないかと思いました。もしも最初からnach dem obigenが何を意味するか理解していたなら「上記の」などと無意味な指示語は入れなかったはずです。
「しかし上述のように $q$ は $K$ に属するので」とすると「上ですでに示したように $q$ が $K$ に属す」と読めますが、これは論理学的にありえません。
ご存知とは思いますが「上述」は $K$ の定義から $S=R(q)$ までを受けています。
「主語がなくなる」とか言う前に、"obigen $q$"と結びつけると、ドイツ語を読むときの基本ともいうべき定冠詞の各変化が変になるのである。女性の Zahl として選ばれた $q$ は、変数であっても女性なので、nach の後では定冠詞が3格となり、nach der obigen $q$ とならねばならない。もし、これを何かの間違いで主語、つまり、1格だと考えたとしても、die obige $q$ である。nach dem obigen ときたら、obig は女性の $q$ の形容詞ではないと分かるのである。
本レビューも本質的な問題は「上記の $q$」が誤訳であるか否かである。もしもobigenが $q$ を修飾するならばobigen $q$ は「上記の $q$」となる。文法的にあり得ないは反論にならない。林さんが独文法を熟知しているという保証はないし熟知していたとしても間違わない保証はない。林さんの反論は論理的とはいえない。念のために書いておくと $q$ をWertと見れば形容詞は男性形となる。「上記の $q$」が意訳とするならどんな訳にも意訳という正当性を与えてしまう。
本質的ではないが試訳の「上述のように」は当然nach dem obiligenに相当する。この場合のnachは典拠を表す。直訳するならば「上述した内容に従うならば」だろう。だが今回の場合は自明とも思える証明なので「上記のように」と書いた。それが不適切というなら「上記のことより」としよう。だからと言って林さんの「上記の $q$」が正当化されるわけではない。これもお分かりだろう。
林氏はブログに直訳と改良訳を載せている。
- 本書の訳 「・・・それは正しいので、上記の $q$ が $K$ に属すことになり」
- 小生の訳 「・・・その場合命題は正しくもあるのだが、しかし上述のように $q$ は $K$ に属するので」
- 林氏の直訳 「それはまた正しくもある。ところが、上記のことから、それは、$q$ が $K$ に属することを意味することになる。」
- 林氏の改良訳 「・・・それはまた正しくもある。ところが、上記の $q$ などの取り方から、それは、$q$ が $K$ に属することを意味することになる。」
直訳は「正しいので」の「ので」が除かれ、訳し忘れていたaberを「ところが」と正しく訳し、nach dem obigenを「上記のことから」とするなど、小生の訳にかなり近づいた。改良訳はnach dem obigenを「上記の $q$ などの取り方から」としているが、「上記の」を無理に入れた印象である。「上記の $q$」はobigenが $q$ を修飾すると誤読したためだろうという疑念への反論の論拠には苦しい。
林氏は自身の直訳について
しかし、こう訳すと、「上記のことから」が、「上の方にある何のことなのか」が曖昧になり、あぎ氏の場合のように、「上でもう既に証明した」という風に読む人がでてくる可能性もあり
と書いているが、少なくとも小生は証明済みとは思っていない。証明するまでもなく定義から自明と考えたから「上述のように」と書いた。林氏はその「証明」を固定云々として説明している。
ところで、全集の英訳では、nach dem obigen を、according to the definitions given above「上記の定義により」と大胆に意訳している。こうすると、読者は、上方向に, $[R(q);q]$, $q$, $K$ に関連する定義を探しに行くだろうから論理的には良いのだが、これも僕には気持ちが悪い。これは論理の問題というよりは、どちらかというと、ニュアンスの問題なので理解し難いと思うが、おそらく、数学科で教育を受けた人の多くは、僕と同じように違和感を感じると思うのである。というのは、上で「固定する」という言葉を多用したように、数学者には、任意に選べるものを「固定する」(英語ではfix)とは、定義と言いたくないという気持ちがあるからである。普通定義というと、任意に選ぶ場合でも、選んだものが何等かの意味で本質的には唯一であることを示すのが普通なのだが、ここで選ぶ $q$, $S$, $R$ などは、本質的にコーディングがらみのことなので、定義と呼ぶにはあまりに気持ちが悪い。英訳者もかなり訳し方に困ったのかもしれない。
なるほどそう考えたのかと他人の頭の中を覗き見る思いであった。しかし一瞬で自明と結論できることも理解してほしい。
解説
もちろん私は数理論理学を専攻したわけではありませんが、このレビュアーの方がドイツ語をよく理解していないことは以下の点から明らかです。
- $q$ würde zu $K$ gehören の würde は werden の接続法II式なのに、「$q$ が $K$ に属すことになり」をわざわざ「$q$ は $K$ に属する」に変更したものを提案している。
- 該当箇所以前で $q$ が現れるのは eine bestimmte natürliche Zahl $q$ だけであり、しかも Wert という語は一回も登場してきていないのに、「$q$ をWertと見れば形容詞は男性形となる」と主張している。
この würde が接続法II式であるという文法的な事実は重く、nach dem obigen の直訳は「上記のことから」でしかないので、どちらからもズレた「上述のように $q$ は $K$ に属するので」を「証明するまでもなく定義から自明と考えたから」という個人的で勝手な理由で提示するのは、極めて筋が悪いでしょう。翻訳者はあくまでも原著者の書いたことを別の言語に移すことを第一義的な任務としているので、Gödel の書き方からあえて外すためにはそれ相応の理由が必要になり、少なくとも誤解を増長させる方向性にあるこの提案は却下されるべきものだと考えられます。そして何よりも、実際に該当箇所までの原論文の論証を確認すれば、ほぼ間違いなく「上述のように」は極めて不自然だと感じるはずだと思います。
- $A$ を自然数を表す自由変数を一つだけ持つ論理式、$n$ を自然数とすると、$[A;n]$ は、「$A$ の唯一の自由変数に自然数 $n$ を表す項、つまり、形式表現」を形式的に代入したもの表す。
- 自然数を表す自由変数を一つだけ持つ論理式のすべての数え上げ $R$ を一つ固定する。(固定するというのは、たくさんあるので、その内の一つを選んで使うという意味。どれを選んでも同じ結論が導かれるので選び方は任意。)
- 自然数を表す自由変数 $a$ を一つ固定し、$a$ のみを自由変数としてもつ論理式で、それの意味が「自然数 $a$ が類 $K$ に属す」となるようなものを一つ固定し、それを $ S$ と書くことにする。
- $R(q)=S$ となるように自然数 $q$ を一つ固定する。
- この $q$ の取り方(固定の仕方)により、一行目の「$[R(q);q]$ が正しい」とは「$[S;q]$ が正しい」ということである。
- ところが論理式 $S$ が表す意味は、3のように「自然数 $a$ が類 $K$ に属す」だったから、$[S;q]$ という論理式は「自然数 $q$ が類 $K$ に属す」という事実を意味している。つまり、「$[S;q]$ が正しい」とは、「「自然数 $q$ が類 $K$ に属す」は正しい」、つまり、「自然数 $q$ が類 $K$ に属す」ということである。
参考資料として、他の翻訳も見ておきましょう。
- 田中訳「ところが, この場合, 上で与えた定義から, $q$ は $K$ に属しており」
- 広瀬・横田訳「しかし,上の定義によれば,その場合には $q$ は $K$ に属しており」