言語学の標準的な教科書である『言語学第2版』には,現代的な観点からはいくつかの問題点が認められています。この記事では,初学者の困惑や誤解を防ぐために,第5章の松村(2004)の問題点を重要度に応じて星の数を増やしたうえで列挙いたします。
この記事を公開するにあたって有益なご意見やご感想をくださった方々に感謝を申し上げますが,仮に誤った指摘や不適切な説明があればそれはすべて私個人に責があります。また,もしそういった点がありましたら,ぜひコメント欄やお問い合わせフォーム,Twitter の DM などでご教示いただけると幸いです。
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154〜155ページ
標準的な定義
言語類型論での標準的な定義(斎藤ほか2015: 7–8, 32)では,
- 自動詞文の単一項にはS,
- 他動詞文の2つの項のうち動作を開始し遂行する項にはA,
- 他動詞文の項のうちAではない項にはP
という文法項のラベルを用いるとき,
- SとAを同じように扱い,Pを別扱いするパターン(S=A≠P)を主格・対格型(nominative-accusative)あるいは単に対格型と言い,
- 対格型格標示を行う言語においてSとAを同じように標示する格のことを主格(nominative)と呼び,
- Pを標示する格のことを対格(accusative)と呼び,
- 主格が形態的に有標で対格が無標の体系を特に(狭義の)有標主格型(marked-nominative)と呼び(木部2019: 32),
- S=P≠A,つまり,SとPを同じように扱ってAを別扱いするパターンを能格・絶対格型(ergative-absolutive)あるいは能格型と言い,
- 能格型言語においてSとPに用いられる格を絶対格(absolutive)と呼び,
- Aに用いられるものを能格(ergative)と呼び,
- 絶対格が形態的に有標で能格が無標の体系を特に(狭義の)有標絶対格型(marked-absolutive)と呼びます。
ただし,ここでは統語論におけるアラインメント(統語的対格性・統語的能格性)は一旦考慮しないことにします。
有標主格型については,以下の講演が非常に教育的で参考になるでしょう。
有標絶対格型については,Comrie(2013)でその存在が報告されています。
The “marked absolutive” is exceedingly rare, having been so far attested only in one language, Nias (Sumatra; Indonesia), where the absolutive is marked by modifying the initial segment of the ergative (Brown 2001).
松村(2004: 154–155)の定義
日本語に代表される主語・目的語の格表示の方式では,一般にその言語の格のなかでもっとも中立的なものが主語の格表示に使われ,特別な格が目的語の表示に使われる.
現代日本共通語の文語では,主題標示されない環境において,ガ格が主語を標示しヲ格が目的語を標示するのが一般的ですが,ガ格が日本語「の格のなかでもっとも中立的なもの」だとは考えられないでしょうし,口語にいたっては目的語がそもそも有形の標示を伴わないことすらある(下地2019: 1)ので,「一般にその言語の格のなかでもっとも中立的なものが主語の格表示に使われ,特別な格が目的語の表示に使われる」「主語・目的語の格表示の方式」の「代表」として「日本語」を挙げるのは極めて不適切(非常にミスリーディング)だと言えます。
自動詞文の主語と他動詞文の目的語を同じ格形(その言語における最も中立的な格形で,「絶対格」「主格」などと呼ばれる)であらわし,他動詞文の主語だけを特別な格形(「能格」と呼ばれることが多い)であらわすような格表示の体系を「能格型の格表示」と呼んでいる(図5.2).能格型の格表示は,対格型の格表示ほど一般的ではないが,オーストラリア原住民語をはじめとして,グルジア語などのコーカサス諸語,バスク語,エスキモー語,中米のマヤ諸語など,世界各地の言語にみられることが知られている.
「絶対格」のことを「主格」と呼ぶ流儀は,たしかにComrie(2013)も “In an alternative terminology, the case that encodes S and P in the ergative–absolutive system is referred to as the nominative. This usage is not adopted here, to avoid confusion.” と書いているように存在はしますが,せめて非標準的であることぐらいは注意するべきでしょう。
また,ここでも絶対格が「最も中立的な格形」すなわち無標であり,能格が「特別な格形」すなわち有標であるものとされており,図5.2にいたっては「能格形」に対置されているのは「絶対格形」ではなく「中立的な形」にさえなっていますが,グルジア語ではŠvil-i ga-i-zard-a.「息子が育った。」とDeda-m švil-i ga-zard-a.「母親が息子を育てた。」(亀井ほか1996: 1049)のように自動詞文の主語も他動詞文の目的語も-iで標示することがある(正確には分裂能格性を示す)ので,これを例に挙げるのは極めて不適切(ほぼ確実に誤り)だと言えます。
以上の事情によって,初学者が松村(2004: 154–155)の定義を文字通りに正確に読解すると,次のような重大な誤解をする可能性が非常に高いと考えられます。
- 最も中立的な(無標の)格形と特別な(有標の)格形は,
- S=A≠Pの場合にはそれぞれ “主格” と “対格” と呼び,
- S=P≠Aの場合にはそれぞれ “絶対格” と “能格” と呼ぶ。
- 「対格型の格表示」と「能格型の格表示」はどちらも項を一つだけ標示するほうの格に基づいて命名されていると推測できるので,
- 仮にS=Aを “対格” が標示しPを “主格” が標示するような格標示の体系があれば,それは「主格型の格表示」と呼ばれ(cf. 「有標主格型」),
- 仮にS=Pを “能格” が標示しAを “絶対格” が標示するような格標示の体系があれば,それは「絶対格型の格表示」と呼ばれるはずだろう(cf. 「有標絶対格型」)。
このような用語法を採用すること自体はもちろん(ただの用語法なので)誤っているとは言えませんが,少なくとも教科書に載せるべき標準的な定義とは大きく異なっている点で,非常に教育的でない説明だと評価できるでしょう。
★★☆
156ページ16行目
head は「主要部」と訳すのが一般的であり(斎藤ほか2015: 215),ここでの「主部」という訳語は「述部」に対して用いられるのが一般的だと思われます。
161ページ(34)
この関係節化可能な文法関係に関する通言語的制約のことは「接近可能性の階層」と呼ばれるのが一般的であり,さらに詳しくは「主語>直接目的語>間接目的語>斜格語>属格>比較の対象」(ここで>は「より接近可能な」という意味)とされています(斎藤ほか2015: 132)。ここでの「名詞句の階層」という訳語は,有生性階層(animacy hierarchy)と解釈されるのが一般的です(斎藤ほか2015: 226)。
★☆☆
143ページ7行目
language universals は「言語普遍」ではなく「言語普遍性」と訳すのが一般的だと思われます(斎藤ほか2015: 74)。
154ページ6行目
case marking は「格表示」ではなく「格標示」と表記するのが一般的だと思われます(斎藤ほか2015: 32)。
参考文献
Comrie, Bernard(2013)Alignment of Case Marking of Full Noun Phrases. In: Matthew S. Dryer and Martin Haspelmath (eds.)(2020)The world atlas of language structures online, Chapter 98. http://wals.info/chapter/98 [accessed on October 16, 2023]. Munich: Max Planck Digital Library.
亀井孝・河野六郎・千野栄一(編)(1996)『言語学大辞典:術語編』東京:三省堂.
木部暢子(編)(2019)『明解方言学辞典』東京:三省堂.
斎藤純男・田口善久・西村義樹(編)(2015)『明解言語学辞典』東京:三省堂.
下地理則(2019)「現代日本共通語(口語)における主語の格標示と分裂自動詞性」竹内史郎・下地理則(編)『日本語の格標示と分裂自動詞性』.1–36.東京:くろしお出版.
松村一登(2004)「言語の多様性と類型」風間喜代三・上野善道・松村一登・町田健(編)『言語学』.第2版第13刷.141–168.東京:東京大学出版会.