英文解体新書 第1.3節 例題3の誤読

概要

『英文解体新書』第1.3節例題3には誤読が存在します(下線引用者)。

Relative to our present sensory experience, there is much about the physical objects we ordinarily speak of which is not manifest. For example, at any one time I can see directly at most three sides of an object such as the book on my desk and actually touch only part of it. Further, for the greater part of the time in which we believe it to exist, it is not observed by us, or indeed by anyone. Its existence thus transcends the actual observations we make of it, and, relative to those observations, its continuous existence while unobserved can only be a matter of inference or construction, just as the belief that the parts of it that I am not touching remain as they did when I was touching them is only an extrapolation from past experience.

(Anthony O’Hear (1985): What Philosophy Is)


[語法・構文]

relative to...: 「...に関連して、...に基づいて」

manifest: 「明らかな、分かりきった」


[第 1 文]この文には 2 つの埋め込み文があります。1 つは physical objects we ordinarily speak of のところ。もう 1 つは which is not manifest のところですが、この後ろの関係代名詞節の先行詞は慎重に考えなければなりません。まず、which is not manifest と単数扱いであることから先行詞は objects ではないと判断する必要があります。また、there is much about the physical objects... のところで、「ものについて多くのことがある」というだけでは当然のことを言っているだけで情報的価値を持たない(意味をなさない)と判断して、「多くのこと」を限定する何かしらの説明が後に続くのではないか、と予想できているのが正しい読み方です。この 2 つを合わせれば、先行詞は much であることが分かります。


[訳例]当座の感覚経験に関連して言えば、私たちが日常的によく話題にするような形のあるものについても自明とは言えない側面がたくさんある。例えば、机の上にある本のようなものに関しても、一度に直接見ることができるのはせいぜいその三面のみであるし、実際に触れられるのは一部のみだ。さらに言うと、それが存在していると考えている間の大半の時間、私たちは、いやそれどころか、誰もそれを見ているわけではない。したがって、その存在というものは実際に観察しているものを超えているし、実際の観察に基づくなら、見ていない間もそれが存在し続けているというのは推論や解釈によるものでしかありえない。その物体の、今現在手で触っていない部分が、以前に触っていた時の状態のままであると考えることが過去の経験に基づく推論にすぎないのと同じことである。

解体新書解釈と二重限定解釈

『英文解体新書』では much about the physical objects we ordinarily speak of which is not manifest の we ordinarily speak of が physical objects にかかっていると考えていますが、統語的には much にかかっていると考えても問題ありません(以下では前者を「解体新書解釈」、後者を「二重限定解釈」と呼びます)。

そのため、この箇所の解釈は統語的な議論だけで決して白黒を付けることはできず、文脈との関連性に照らし合わせて比較衡量するしかありません。たとえば、「二重限定解釈では『which is not manifest と単数扱いであることから先行詞は objects ではないと判断する必要』がなくなるので、その分だけ自然な解釈だと考えられる」のように、以下でも「この証拠があればどちらの解釈の方が『より尤もらしい』か」という議論をせざるをえないのは、このような事情によるものです。

引用箇所だけからわかること

私が誤読の存在に気付いたのは、『英文解体新書』を後輩との自主ゼミで読んでいたときに、この引用箇所だけからでも解体新書解釈に次のような猛烈な違和感を抱いたからです。

  1. 文脈との整合性:もし「私たちが日常的によく話題にするような形のあるもの」についての側面を論じようとしているのであれば、まさに「私たちが日常的によく話題にする」ことによって生じる「有形物についての性質」が論じられるのが自然なはずですが、実際にはどちらかというと、あらゆる有形物に対しても成立するような「私たちの認識についての一般論」が続いているように見えます。訳例では「についても」や「に関しても」のように、原文には明示されていない「も」の要素を補っているので、結果的には何とか整合性のとれた文章になっています。
  2. パラレリズムの存在:Relative to [our present sensory experience], [there is much about the physical objects we ordinarily speak of which is not manifest] と relative to [those observations], [its continuous existence while unobserved can only be a matter of inference or construction] のパラレリズムを考えると、there is much ... which is not manifest と its continuous existence ... construction には意味上の強い類似性があるはずであり、解体新書解釈では少しズレてしまいますが二重限定解釈ではかなり近いものになります。この場合、relative to は「...に関連して、...に基づいて」ではなく「...に比して」と解釈すべきです。

解体新書解釈が有利な点は the physical objects が定であることを「we ordinarily speak of が付いているから」と説明できるぐらいで、そのことも(前後の文脈が与えられていない以上は)二重限定解釈を否定するまでの材料にはなりません。

以上の点を考えれば、引用箇所だけからでも、解体新書解釈を棄却して二重限定解釈を受容すべきだと判断できます。

引用箇所以外からわかること

まずは、おそらく次の箇所を読めば、論旨がわかりやすくなるのではないかと思います。

For example, suppose that I (perversely) decree that the colour quale presented by a (red) apple now is the same as that presented by the (blue) sky yesterday noon. Then I cannot very well also maintain both the following (natural) statements: (1) that the quale now presented by the sky is the same as that presented by it yesterday noon, and (2) that the quale presented by the apple now is very different from the quale presented by the sky now.

The conclusion is presumably that I would be persuaded by (1) and (2) to give up my original ‘perverse’ decree, and that this would be a reasonable move in the circumstances, but it is quite obvious that the only reason for holding (1) and claims like (1) is that there are objects which both endure through time and have similar appearances at different times. (p. 32)

次に、具体的な論証を行いましょう。

  1. 引用箇所 (p. 21) の直後には Then again, we say that the book is of such and such a colour, yet it manifests this colour only in certain lights and certain conditions. という二重限定解釈に非常にパラレルな文が続きます。manifest の動詞用法は to make evident or certain by showing or displaying (Merriam-Webster) なので、パラレリズムを推し進めれば、該当箇所の形容詞 manifest も 2: easily understood or recognized by the mind : OBVIOUS (ibid.)「明らかな、分かりきった」ではなく、1: readily perceived by the senses and especially by the sense of sight (ibid.) と解釈すべきだと考えられます。
  2. 引用箇所の直前には Why, then, are we fully entitled to assert only the contents of our immediate experience? The clue here is given by the use of the term immediate. とあり、さらに少し後で These factors taken together suggest very strongly that what we know of things in the external world is mediated through our experiences. (p. 22) とあることを考えれば、much ... which is not manifest は mediated through our experiences (cf. only an extrapolation from past experience) なので immediate と言わないのだ、と伏線を回収している形になるはずです。
  3. 他にも The claims we make about the existence of things in the external world go beyond these experiences in various ways and are subject to error and correction, while the experiences themselves are the result of causal processes which seem to rule out any direct access to the objects which we ordinarily suppose are the causes of the experiences. (p. 22) や our judgements about external objects assert far more than is given in the judgements of sense experience on which they depend. (p. 24) などのパラレルな表現が大量に見つかります。
  4. the physical objects が定であることは、前の段落で The view we are considering would then hold that impressions or sense data are the primitive elements out of which our picture of the world and the objects it contains are constructed or inferred. What we think of the reduction of physical objects, people and the rest implied in the suggestion that they are theoretical constructs ... (p. 21) のようにあることから問題なく説明できます。

他にも In earlier sections, we have seen how there is a sense in which our picture of the external world transcends our experiences of it, how it is a world composed of objects which exist while unperceived and which have properties not directly manifested in experience. (p. 79) など、ここでは書ききれないほど大量にパラレルな表現が存在するのですが、いずれにせよ上記の文脈上・表現上の議論をすべて覆すような証拠が解体新書解釈に存在するとは思えません(少なくとも私が個人的に相談した十数人近くの方々からはそういった反証を頂くことはできませんでした)。したがって、引用箇所以外を考えれば、さらに解体新書解釈を棄却して二重限定解釈を受容すべきだと強く判断できます。

ところで、この例題の難易度は★★★★★となっていますが、この we ordinarily speak of を評価から除外してもよいのだったら、おそらく★★☆☆☆ぐらいなのではないでしょうか。ただし、we ordinarily speak of の難しさも、最初は二重限定の可能性すら思い浮かばなかった方々に前後の文脈を見せると「これは二重限定だ」と(ほとんどの場合は)口々に言っていたことを考えれば、どちらかというと問題集としての紙面の都合によって生じた難しさだとは感じます([文脈]でもっと補えばよかったのではないか、という意見はありえます)。

余談

後輩に英文解釈を指導していると、「自分で訳していて何を言ってるのかわかってる?」「『よくわからないけど訳せた』は99%フェイク」「アクロバティックな統語構造を動機もなく仮定しない」「書いてないことを読まない」の 4 点を叩き込むと、とにかくメタ認知が一気に鍛えられて伸びるんだなぁと感じることが増えました(対面での教育にはメタ認知を伸ばすことしかメリットがないのでは、ぐらいに思い始めてきました)。自分は若い頃は統語構造だけで解釈を決め打ちしようとしていたことがありましたが、こうして「パラグラフから数文を切り出してきた程度では統語構造すら決まらない」という事例を多く目の当たりにすると、文脈(≒意図)とパラレリズムはときに文法を超越するのだ、ということをつくづく思い知らされます。

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