4 分 33 秒

3.141 Der Satz ist kein Wörtergemisch. — (Wie das musikalische Thema kein Gemisch von Tönen.)

Der Satz ist artikuliert.

Ludwig Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus

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ジョン・ケージが 4 分 33 秒 を作曲したのは(本人の意図がどうであったにせよ実質的に齎された効果について評価すれば)、インド人が $0$ も数だと主張したのと、あるいは $\varnothing$ も集合だと主張したのと同じなのではないか。そのことによって「実は音が鳴り止んだ余韻も音楽の一部なのだ」「音楽は単なる楽譜のノーツの集合体ではなくその間にある沈黙もその構成要素なのだ」と主張できるようになり、音楽の理論的な連続化・アナログ化とでも言うべき行為が遂行されたのではないか。

……書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。

4 分 33 秒の楽譜に書いてあるのは TACET という文字だけだが、これよりも強く実践的なのは休符や、空間のすべてをも支配する G.P. である。「音楽とは書かれたノーツの集合体である」という立場からすれば TACET も G.P. も音楽ではないということになってしまう。しかし、やはり「何も演奏していない」ことと「沈黙を演奏している」ことは全く別なのだ*1。演奏者が 4 分 33 秒を演奏する前に調律している理由はそこにある。

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凛として時雨は、一体なぜ Telecastic Fake Show の最後に MV でも CD でも「スティックを置く音」を含めているのだろうか? それは本当に音楽の要素を成すことなく、単なる無駄に過ぎないのだろうか?

追記.鮎川ぱて『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』(文藝春秋、2022 年)の p. 388 にも次のような記述があった。

ケージ本人によるこの曲の意図*36の解説もよく知られているんですが、ぱてゼミとしては、次のように解釈したいと思います。

「4 分 33 秒」は、雑音だけではなく無音にまで、音楽を構成する権利を開放したのである。

*36 ぱてゼミは作者と作品を切り離して解釈するので本文の通り話したが、作者の自己解説は次の通り。

楽曲は無音だが、そうするとコンサートホールの中にすでにあった音——椅子の軋む音、服の擦れる音、咳払いなど、なかったことにされていた「雑音」がハイライトされる。完全な無音状態というものは存在せず、世界はいつも音に満ちている——そんな気づきを与えるのだ。