読書録:秋葉忠利『数学書として憲法を読む』

経緯

Twitter で話題になっていたので早速図書館で借りてきて読んでみた。

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結論から言えば、この数年間のうちに読んだ本の中では五本の指に入るほど面白い本だった。「はしがき」にも書かれているように、本書では次の事項が論証されている。

  1. 憲法は死刑を禁止している。
  2. 96条という憲法改正の規定はあるが、9条や11条等、改正してはいけない条項がある。
  3. 内閣が憲法を遵守していてもいなくても、天皇は憲法を遵守する義務を負う。
  4. 基本的人権を制限する上での基準だと考えられる「公共の福祉」とは、憲法の総体を意味する。

特に a と b が衝撃的すぎる結論だった上に、論証も極めて納得のいくものだったので感動してしまった。この二つだけで読む価値があると間違いなく言えるだろう。その上で述べさせてもらうと、一体どこが「数学書として」読まれているのか全くわからなかった。原文に忠実に読むことを「数学書として読む」と表現する方がウケがいいのは間違いなく認めざるをえないが、全般的に論理の構造が雑然としているので読みづらいし、数学書と銘打っていることに鑑みると不明瞭な議論が散見された。これは私が「数学書」という語を冠していることに対して過剰に反応しているだけかもしれないが、ただもちろん、それを考慮しても面白い結果が示されていることは改めて強調しておきたい。

追記:友人に見せると「そもそも法は semantics から syntax をつくっているので、こういう semantics ガン無視の議論をやるのも構わないだろうが微妙ではないか」という感想が返ってきたのだが、それと同時に法はひとたび成立してしまえば「syntax から semantics へ」という逆転が(完全ではなくとも部分的に)起こってしまうので必ずしも曲芸をやっているだけではないだろうと返すと同時に、おそらくここで言う「数学書として読む」ということが「syntax だけを読む」ということに他ならないのではないかという理解に至った。ただ、やはり本書があまりにも syntax を重視しすぎる態度を取ることによって、一種の諧謔性が立ち現れてギャグ漫画の様相を呈し始めてさえいるのは、奇妙なほどに面白いことだ。

c

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

はい(これは素直に読めば国事行為に当たらないでしょう)。

b

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

もし9条が改正可能であると仮定しよう。このとき、9条は「ある時点で96条によって改正されれば、国権の……行使を放棄しなくてもよいことになる」という解釈を予め許容していなければならないが、それは「永久にこれを放棄する」という文言に反する。ゆえに9条は改正不可条項である

同様にして、「永久の」という語を含む11条と97条は改正不可条項であり、したがってそれらを具体的に表現している10〜29・31〜40・79-2・82条のうち権利と自由についての部分は11条・97条に反するように改正してはならない。

特に13条「最大の尊重」と36条「絶対に」はこの階層関係がなくとも改正不可条項になっている。ある時点で最大でない尊重をすると、どの時点でも最大の尊重をする場合よりも尊重していないことになるから(「絶対に」も同様)。

b への補足

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

「日本国民の総意」は計測できない絶対的なものなので、1条を改正することはできないと主張されている。それが計測できない理由として、著者は「現実問題として全員が同じ投票をするわけがないから」といったことを(たしか本書内で二回ほど)挙げているが、それではやはり「全員同じ投票をしたらどうなるのか」という不可避の疑問に答えられていないだろう。

朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

とあるように、「日本国民の総意」を認められるのは「朕」であり(これは第8章でも強調されている)、もし国民全員が1条の改正に賛成する投票をしたとしても、それは素朴には単に「過半数の賛成」の特殊な場合にすぎず、即座に「日本国民の総意」となるわけではないと考えるのがよいだろう(つまり、憲法には「日本国民の総意」を認めるための手続きが規定されていないのだ)。「日本国民の総意」に基づいた地位をそれよりも弱い「過半数の賛成」によって覆すことは「総意」の定義に反するので、改正不可条項である。このことから99条は、日本国民の総意に基づいた天皇のなすべき義務を定められるのが日本国民の総意に他ならない以上、改正不可条項だと捉えるべきである。

a

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない……

国民はこの憲法が国民に保障する自由及び権利を保持するために「不断の」努力をしなければならないので、この箇所の改正は禁じられており、したがって国民の自殺も、国による国民への死刑の執行も永久に禁じられている

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

も死刑を禁止する理由になっている。

d

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

最高裁や英訳は「基本的人権が公共の福祉に反しない限り」と解しているが、それでは端的に

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

と矛盾してしまうので、13条は「公権力が基本的人権を最大限尊重することが公共の福祉に反しない限り」と解する方がよい。ここで、この基本的人権を制限する条文が

第三十一条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

しかないことと、

第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

と規定されていることを鑑みると、「公共の福祉」とは憲法の総体そのものであると考えるべきである。したがって、「基本的人権+公共の福祉」と「公権力」が対峙しているという構図を思い浮かべる方が適切である。

a への補足:死刑についての最高裁判決

尊属殺殺人死体遺棄被告事件 最高裁判所 昭和22年(れ)第119号から引用しよう。

まず、憲法第13条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上最大の尊重を必要とする旨を規定している。しかし、同時に同条においては、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ。

この手の話ではいつものことだが、公共の福祉に反しないならば最大の尊重が必要とされることから、公共の福祉に反するならば最小の尊重をしてよいことは決して導かれない

そしてさらに、憲法第31条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によつて、これを奪う刑罰を科せられることが、明かに定められている。すなわち憲法は現代多数の文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである。

これもまた御多分に洩れず、法律の定める手続によらなければ生命を奪えないことから、法律の定める手続によれば生命を奪えることは決して導かれない

e

これは著者が挙げていない事項ではあるのだが、「国民は社会で生き続ける義務を負うが狭義の勤労をする義務を負っているわけではない」という命題は、私には少なくとも c よりは百倍ぐらい大事な事項だと確信させられるのでせめて e という番号を振らざるをえなかった。

第二十七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。

第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

一見矛盾しているように見えるし、何よりも全ての国民に勤労の義務を負わせることは特別の事由があって働けない国民に対してあまりにも酷い仕打ちをしているのではないのだろうか。そこで「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件」を単なる例示と考え、「勤労」という語を極めて広く「社会で生き続けること」という(哲学でよくありがちな)意味で取ることで矛盾が高度な次元で解消できると著者は主張する。私もこの解釈には大手を振って賛成したい。働きたくないというわけでは決してないのだが、日本国憲法で本当にしょうもない条文ランキングの堂々一位を飾り続けてきた27条がこのように復権を遂げるのであれば、ぜひともそうしたいところである。