ローゼンバーグ『科学哲学』がゲーデルの不完全性定理を理解していない件について

巷では「科学哲学の学部教育のスタンダードと言っても差し支えない本」と(出典は不明だが自分の備忘録にそうメモ)されているローゼンバーグ『科学哲学』は、訳書は第二版を底本にしているが、原書では第四版まで出ている標準的な教科書のようだ。そこで、この訳書の方にあるクルト・ゲーデルに関する記述をすべて抜粋してみた。

しかし一九三〇年代に、オーストリアの数学者クルト・ゲーデルは、決定的に重要なやり方で、コンピュータは人間という計算機とは異なることを数学的に証明した。そのすぐ後で、何人かの哲学者と科学者が、この結果は認知と心についての科学的理解に対する障害になると論じるようになったのである。ゲーデルが証明したのは次のことである。それは、算術の規則を全て含むほど十分に強力ないかなる公理体系であれ、その体系自体の完全性(completeness)を与えるほどには強くない、ということである。すなわち、算術を含む公理体系は、人間が確認できる算術の真理を全て導出するほどには強くないのである。そのような体系の完全性を与えるためには、もっと強い体系、つまりさらに多くの公理や異なる公理を備えた体系が必要となるのだが、そうすると、同様のことがこの強力な体系にもあてはまることになる。その体系の完全性は、やはりその体系内では証明できないのである。さらに悪いことに、無矛盾性(consistency)の証明というのはいつでも、その体系の完全性を与えられるようなある一つの、あるいは複数のもっと強い体系には相対的なのである。ところが、人間の心にはこれと同じようには制限されることのない算術の理解が組み込まれているといわれる。おそらく、コンピュータとは異なり、人間による算術の「表象」は公理的ではないことが理由なのだろう。人間の心が算術を公理的に捉えているか否かとは別に、ゲーデルの証明にはもっと考察すべき側面がある。ある公理体系の無矛盾性が、(それとは別のもっと強力な公理体系を用いた結果として)証明可能である、すなわち矛盾や恒偽命題を含まない場合、ゲーデルが示したのはその無矛盾な体系の言語で定式化可能であるが、その体系では証明不可能な表現がいつでも少なくとも一つは存在すること、すなわちその無矛盾な体系は不完全であるということである。ゲーデルの戦略はおおまかにいうと、少なくとも算術と同じくらい強力であるような無矛盾な体系にはどれも、「この文はこの体系では証明不可能である」という形式の真なる文が、実際にはこの体系で証明不可能ではあるが必ず存在する、というのを示すものであった。

算術をおこなう能力のあるコンピュータにプログラムされているようなどんな公理体系も、完全かつ無矛盾であることを証明できない。最も望ましくないのは矛盾した——誤った計算結果を出力する——コンピュータや計算機であるから、完全であることが証明できないプログラムを搭載したコンピュータで満足せざるをえない。しかし、明らかにこれは人間の限界ではない。そもそも、私たち人間が、あるいは少なくともそのうちの一人であるゲーデル博士が、この結果を証明したのである。ゲーデルにこの結果が証明できた理由は、コンピュータとは異なり、人間の心には完全な公理体系プログラムに含まれる矛盾した言明と、その体系に最も近い無矛盾な代替公理体系における証明できない真なる一つの言明を見極めることができるからである。それゆえ、人間や人間の心、あるいは少なくとも人間が用いる思考の規則は、脳というハードウェア(あるいはウェットウェア)上に実装されている単なるソフトウェアではないことは明らかである。この数学的結果は、いかなる物質からできていようと——シリコンチップ、真空管、歯車、ニューロンとシナプスであれ——あらゆる物理的なシステムに対して制限を課すのだから、とりわけ著名な物理学者が論じるには、人間の心は物質的ではありえないことになる。それゆえ、人間の心というのは、物質の研究に適した手段、それが物理学や化学、生物学にあるものであっても、そのような手段で研究される対象ではないというのだ。

さて、以上は、一つの哲学としての純粋に科学的な世界観への信頼を損なわせかねない、現代科学(および数学)による結果である。読者が注意すべきは、ゲーデルの「不完全性」定理からこのようにして導かれた結論は徐々に知られてくるようになったが、大いに物議をかもすものであり、決して広く受け入れられたものではないということである。実際、私はこの証明がこのようにして導かれた結論を示しているとは考えていない。ただ、大事な点は、科学におけるこのような結果は、たとえこの事例のように議論の結果が哲学としての科学的世界観に制限をもたらすものであるとしても、哲学の伝統的な活動指針に比べればはるかに重要であるということである。(pp. 26-28)

第1章で言及したゲーデルの定理が含意することの一つは、算術が純粋に定義とその帰結の集まりだというテーゼが、正しくないことである。それゆえ、結局のところ、必然的に見える数学的真理に関する知識の認識論的立場は、経験主義にとって問題であり続けるのである。(pp. 49-50)

しかし、二〇世紀に数学の基礎についておこなわれた研究が示したのは、数学は単純に定義とその帰結だけからできているわけではないということであった。クルト・ゲーデルが、数学的言明からなるどんな集合も完全(あらゆる算術的真理が導出できる)、かつ無矛盾(矛盾を一切含まない)ではありえないということを証明したとき、必然的真理はどれも定義であるという経験主義者の主張は覆されてしまった。(pp. 310-311)

特に訳注も何もついておらず「訳者あとがき」を見ても何ら言及がなされていないが、読む人が読めば多かれ少なかれ次のような感想を持つはずだと思う。

それから「万有引力」の意で「重力」と言ったり*1、ゲーデルの不完全性定理の主張がかなり簡略化されて(端的に言えば誤って)いる点が気になる。

特に不完全性定理が「必然的真理は定義により真である」というテーゼを否定するというのは決して自明ではない様に思われる(抑々その不完全性定理は定義を基に証明されるのだ)。

アレックス・ローゼンバーグの『科学哲学』amazon.co.jp/dp/439332322X/ を読み始めたのだが、初っ端(pp.26-28)にある記述:「ゲーデルの…」「ところが人間の心には…」で激しく疲れてしまひ、先に進めないでいるホセヲだつた。

— ホセヲ・俺はゲルググで…えっ無いの? (@yjszk) 2011年12月20日

久しぶりに色々と読んでいたら田中一之さんが次のように述べているのを見つけた。

第二不完全性定理を「どんな整合的機械システムについても,それが整合的であることはそのシステム内で証明できない」と言い換えてみよう.これを使って,われわれ人間が(整合的)機械ではないことを導きだす議論がいくつかあるが,大概何らかの論理的ギャップを含んでいる.例えば,このような第二定理を証明できる整合的機械があるとしてもよいが,その機械でも「自らの整合性を証明できない」ことを証明できるわけではない.これに関連しては,第 6 章にルーカスやペンローズによる種々の議論とその問題点が紹介されている.(p. 231)

それにしても、基礎論って怖くない?

「沼すぎる上に変なこと言いたくないから一切の判断を留保して口を出さない代わりにあまり勉強しないでおきたい」という態度は、果たして良いのだろうか。まあでも、偉い先生方や先輩方を見ていても、たとえば強制法を知っている人は少数派っぽいしなあ。

追記. id:Alwe さんにこの話を見せたら次のようなコメントを頂いた。ありがたい。

Alwe:哲学的な議論における誤り以前に、不完全性定理のステートメントを誤っていたり、証明の概略も誤っていたりしますね。例えば、算術を含む、というのも明確ではないし、また再帰的可算な理論に対してしか不完全性定理を適用できない、というところも抜けていますね。

哲学パートに関しては機械論、反機械論に関してよく不完全性定理が題材に上がるという印象はあって、この誤用自体はGödel本人すらしていたというのを聞いたことがあります。こういう話の反論としては4色ゲーデル本の一巻に纏まっていたはずなんだけど、いま手元にはないので、今度確認してみます。

永月:ローゼンバーグの科学哲学は結構有名なテキストなので、これを手放しで有り難がっている哲学系の人々が不完全性定理についてあまり無頓着なんじゃないかと思ってしまった。

第1巻II第2章の「人間と機械」かな? あまりちゃんとは読めていないけど、機械論との関連で考えようとすると結構意外と込み入った問題っぽいのはわかった。

Alwe:私の周りにいる哲学系の人は数理論理学にも造詣が深いのでそういう認識はあまりなかったんですけど、こういうテキストが読まれているんですね。確かに哲学系の論理学の本とかでは不完全性定理の扱いがひどいのは見受けられます。

それから、最後のぼやきについて

永月:基礎論を専門としていなければ怒られない程度の知識って、新井基礎論の第一部ぐらいだろうか。

Alwe:多分そうだと思う。逆に数学基礎論の専門家は第一部くらいの内容は、数学基礎論から発展したどの分野でさえ、ある程度は把握して共通知識とされている感じ。

というご回答をいただいた。どこかのタイミングでちゃんと基礎固めをしておかないと……。

*1:追記:もし $GMm/r ^ 2$ と $mg$ を対比しているのであれば、「広義には,物質間にはたらく万有引力そのものを重力ということがある」(旺文社 物理事典)ので不適切な批判です。