中一のときに上下巻のどちらも読んで参考になったのですが、最近また見返したくなったので読み直してみると、推敲編の pp. 63–64 に次のような記述がありました。
「それぞれ」は対応関係を明確にする便利な語句です。
悪い例
次の式で、両辺の実部と虚部を等号で結べば倍角公式が得られる。$$(\cos{2\theta})+(\sin{2\theta})i=(\cos ^ 2\theta-\sin ^ 2\theta)+(2\cos\theta\sin\theta)i$$
この悪い例では「両辺の実部と虚部を等号で結ぶ」と書かれています。これは二つの解釈が可能です。
- 両辺の実部同士を等号で結び、両辺の虚部同士を等号で結ぶ。
- 左辺の実部と虚部を等号で結び、右辺の実部と虚部を等号で結ぶ。
数学的な意味を考えれば、(1)になることはわかるのですが、文章だけを読むと(2)の可能性もあります。
改善例1のように「それぞれ」を使うと(1)の意味に定まります。
改善例1:「それぞれ」を使う
次の式で、両辺の実部と虚部をそれぞれ等号で結べば倍角公式が得られる。$$(\cos{2\theta})+(\sin{2\theta})i=(\cos ^ 2\theta-\sin ^ 2\theta)+(2\cos\theta\sin\theta)i$$
しかし、たとえば「両辺の実部と虚部をそれぞれ二乗して足せば絶対値が比較できる」のように枠組みをそのままにして語だけ変えた文では、「それぞれ」が (2) の解釈になることがわかります。
そう考えた上で改めて「両辺の実部と虚部をそれぞれ等号で結べば」という表現を眺めてみると、どうやら「それぞれ」を入れる前と全く同様に (1) の解釈も (2) の解釈も同じように許容されることが理解できます。というのも、元々 (1) だと考えていた人は「それぞれ」が「実部・虚部」を指すのだと自然に理解し、元々 (2) だと考えていた人は「それぞれ」が「左辺・右辺」を指すのだと自然に理解するからです。
注意しておきたいのは、上の自作の例文はあくまでも「それぞれ」を入れても何らかの統語論的・意味論的制約によって解釈が一意に定まるのではないということを示すためだけに持ち出したのであって、この例文自体は一意に解釈が定まるように作られている(はずな)ものの読みやすい文とはお世辞にも言えないということです。こういう論証って言語学ではよくありますよね。
追記:日本語同好会にこの話を投げてみました。
某「『両辺について、実部と虚部を……』とするのがよいのだろうか」
永「その本質は読点だけにあるのではないか」
某「『について』もあるだろう」
永「『両辺の、実部と虚部をそれぞれ』は定まるだろう」
某「しかし、『両辺について実部と虚部を……』も定まるだろう」
永「いや、『左辺について実部と虚部を、右辺について実部と虚部を』と読めるだろう」
某「そのような気もする」
追々記:第 6 刷から該当箇所が次のように修正されたようです(正誤表)。ご対応していただいた結城氏に改めて感謝の意を申し上げます。
「それぞれ」は列挙した複数のものを一つ一つ個別に扱うことを示す便利な表現です.
例:「それぞれ」を使わない場合
R, G, B という変数名は Red(赤), Green(緑), Blue(青)の頭文字に対応しています。上の例は特にわかりにくいわけではありませんが, 下のように「それぞれ」を使った方が列挙したもの一つ一つに注意が向きやすくなります。
例:「それぞれ」を使った場合
R, G, B という変数名は、それぞれ Red(赤), Green(緑), Blue(青)の頭文字に対応しています。