はじめに
タイトルを見て「小林秀雄訳『地獄の季節』の誤訳」ではないのかと思われるかもしれませんが、実は Rimbaud(一般的には「ランボー」ですが小林訳では「ランボオ」)の Une saison en enfer の訳としては杜撰でありながらも傑出した文学性を有しているとされており、その意味では小林秀雄が創作したと言ってもよいという業界常識を踏まえた上で付けています。いや、本当は「訳」が連続するのを避けたかったからです。
こういう記事を書く上では、魔除けが重要です。加藤晴久, 2007, 『憂い顔の『星の王子さま』-続出誤訳のケーススタディと翻訳者のメチエ-』, 東京, 書肆心水, 255 p. という素晴らしすぎるがゆえに絶版となってしまった本に次のような魔除けがあります。
本書に対しては二つの反応がすぐに予測できる。
ひとつは、これはフランス語の解釈をめぐる仏文学者どうしの論争である、自分は学者でない、だから自分には論点の正否を判定できない、という反応である。
しかしここでは、「学問」はまったく関係ない。ごく一部の箇所を除けば、初級フランス語の理解の問題なのである。本書の論議は仏検2級程度のフランス語力があるひとなら、十分にフォローできるレベルの話なのである。
詩作品については特に、しかしそれだけでなく散文の作品についても、「文学作品はいろいろな解釈が可能だから、これは誤訳だ、あれは誤訳だと、いちがいに言えないことがある」と言い張る者たちがいる。だが、たいていは自分の読解力不足をごまかすための逃げ口上、言い訳である。繰り返すが、第III部で指摘した翻訳の問題点は、いずれも初歩的な事項であって、ごく少数のケースを除くと、複数の「解釈」の可能性は絶無である。もちろん、原文を正確に読解した後、どう訳すかは訳者の腕の見せどころであるが、読解の正否はひとつしかない。
第二の反応は、自分は学者でないどころか、フランス語もまったくできない、しかし、翻訳が原文に忠実かどうかなんぞ、どうでもよい、自分はX(あるいはY、あるいはZ)の訳が好きなのだ、それで十分なので、つまらない話には関心がない、重箱の隅をほじくるような議論はやめろ、という反応である。
このたぐいの人たちにはつける薬がない。ミラン・クンデラが言っているようにうつくしい翻訳とは忠実な翻訳なことである。原作に忠実かどうかなぞどうでもよいと無茶なことを言う人々と理性にもとづく会話を交わすことは不可能である。(pp. 6–7)
永井 (2021)
ランボーの『地獄の季節』を岩波文庫の新対訳版で読んでいるが、その注の詳細さとともに同時に参照している岩波旧版小林秀雄訳の誤訳だらけなのに驚く。だからかつては全く誤解していたこととともに今回はあの「引退系」の息吹きをまざまざと感じることができて心に直に深く響いてとても嬉しい。
新対訳214頁のJe finis par trouver……を小林訳39頁は「この精神の乱脈も、所詮は神聖なものと俺は合点した」と訳しているが、ここは「俺の精神の乱脈を、俺は最後にはついに神聖なものとみなすに至った」としてもらわないと。まさに「引退系」の息吹きがまざまざと感じられる最重要な箇所。
「所詮は神聖なものと合点した」っていくらなんでも凝り過ぎじゃないか。ここはどう読んでも自分が自分自身の精神の乱脈を神聖なものとみなすに至った経緯を振り返って否定的に捉えている(=詩を捨てる決意を示している)あまりにも痛切で涙なしには読めない単純至極な箇所だと私には思えるのだが……。
今回理解できたもう一つの点は、『地獄の季節』という作品は全体が非常に緻密に構成されていて、感覚的な詩才(これは言わずもがな)を超える重層的自己諧謔力(直前に自分が言ったことを直後に自分で揶揄える視点移動力のような)に驚かされるという点。書ける人はもちろんだが読める人も少ないのでは?
「岩波旧版小林秀雄訳の誤訳だらけなのに驚く」と書いたが、これは、例えば『必読書150』で絓秀美が言っている「その『誤訳』の多さにもかかわらず、その後出現した多くの『正確な』訳をしりぞけて、いまなお圧倒的な影響力を誇っている*1」といった一種の業界常識を踏まえてのことなので、誤解なきよう。
ついでに一言。遥かに地味な例だが、例えば池田晶子はヘーゲルの大論理学を誤訳だらけともいえる武市健人訳で読んで圧倒的な影響を受けた(と言っていた)。もしその後に出現した正確な訳で読んでいたらきっとそんなことは起こらなかっただろうと思う。
——マンマのさんまMk-2 ジャン=リュック・ナンシー(の『アドラシオン』)を読んでいると、彼は、ランボーが神聖なものへと見なすに至ってしまう所に、言葉のラディカルな性格を認めている様に思える。
言葉が向かう彼方は、(そのままの意味での世界の彼方ではなく)世界の内で世界を開く様な彼方にならざるを得ない。だから、ランボーが言う(向かう)先も、使い古された「神(々)」といった名しか持たない(し、それ故にランボーは、彼が捉えてた詩的覚醒を、彼自身の手でお払い箱にしてしまった)という事で。
実際に『地獄の季節』が、言葉の性格による断念として読めるのかは、自分で読んで確認したい所(入手出来ればだけど)。
この直前の「俺は、俺の魔法の詭弁を、語の幻覚(l’hallucination des mots)によって解明した(expliquai)」という箇所は、ランボー自身がいったんはそのように「解明した」とも読めますね。強く解釈を入れると、むしろこの解明こそが彼の詩なのでは?
そのまた直前の段落では「ただの幻覚(l’hallucination simple)には慣れっこになっていた」と言ってその諸々の例を挙げているので、それを受けてそれらを「諸々の語のもつ幻覚を使って顕在化させ」、ついにはそういう錯乱した行為自体を聖なるものと見做すに至った、と言っているようにも読めますね。
もちろんこれも、2月12日に書いた、軽井沢くん風の「個体芸術論」に裏打ちされた、かななん風の「人生に悔いはない」思想の一種とみなせる。ここでもやはり、遺稿は焼却される代わりに、その焼却過程自体が作品化されている、と。(pp. 43-44)
詩をやめる詩にはそれだけで心ひかれるところがあるが、哲学をやめる哲学にはあまり魅力が感じられない(のはなぜかな)。まったく私的に、文字どおり焼却過程自体を個体的に作品化するなら別だが。(引用者補足、2021年3月2日)
如上の鑑賞は極めて正鵠を射ていると思います。なお、「岩波文庫の新対訳版」というのは、ちょうど今から二年前に出版された中地義和氏による『対訳ランボー詩集』のことです。
上でも述べられているように非常に詳細な注が付けられながらもレイアウトが非常に見やすい対訳本になっており、私自身も「これはいちいち図書館で借りていては返すたびに『ああ返さなければならないのか!』と嘆かなければならないなら買ってしまった方がよい」と思い立って所有するに至りました(こういう本に出会えることはなかなかありません)。したがって、これ以降は小林訳についての検討は各自で中地訳と照らし合わせることで行ってもらうことにして、むしろ中地訳を検討していくことを中心に進めていくのがわかりやすいでしょう。
篠沢 (2005)
篠沢 (2005) の第一部は、もともと白水社の雑誌「ふらんす」に 1984 年 4 月号から 1986 年 3 月号まで連載されていた「『地獄の一季節』表層解釈の問題点」をもとに 1989 年に出版された翻訳を使って、小林・鈴木訳を詳しく検討することにより篠沢の言う「表層解釈」を実感してもらおうというものです(詳しい出版経緯は巻末の「あとがき」を参照)。ただし、連載時の立場を変更したり、論点をごっそり飛ばしたり、あるいは全く新たな議論を行っていたりするので、この記事では篠沢 (2005) だけを念頭に置くことにし、連載の方を詳しく検討するのはまた別の機会にしておきます。
誤った指摘
tous + 無冠詞名詞
J’ai horreur de tous les métiers. Maîtres et ouvriers, tous paysans, ignobles.
小林訳:およそ職業と名のつくものがやり切れない。親方、職工、百姓、穢わしい。
小林・鈴木訳:ありとあらゆる職業がやり切れない。親方と職工、全ての百姓、穢はしい。
篠沢は、まずこの意味であれば A et B, C ではなく A, B et C にするはずであり、かつこの tous は代名詞ではなく次に示すような「列挙の要約」を担う形容詞であると主張します(辞書は私の手許で確認できる『プチ・ロワイヤル』と『ロベール』と TLFi を引きました)。
❸ ⦅文⦆ ⦅列挙の要約⦆ すべての, 全…
▶ Je désire visiter Quimper, Saint-Malo, Dinan, toutes villes que je ne connais pas en Bretagne.
カンペール,サン-マロ,ディナンといったブルターニュで行ったことのないこれらすべての町を訪れたいと願っています
4 [文章語] (列挙された名詞を受けて)
Il se souvient de Rome, Florence, Venise, toutes villes qu'il a visitées avec elle.
彼はローマ,フィレンツェ,ベネチアなど彼女と一緒に訪れたすべての町を思い出す.
− [Pour récapituler]
Sur les douze jurés, il y a trois cultivateurs, deux officiers retraités, un médecin d'Aygueperse, deux boutiquiers, deux propriétaires, un manufacturier, un professeur, tous des braves gens, des hommes de famille et qui voudront un exemple (Bourget, Disciple, 1889, p. 228).
まず一つ目の主張については至極当然だと感じますし、この大原則を破っている小林訳をはじめとするいくつかの訳書には「本当にフランス語を読んだことがあるのか?」と訝しまざるをえません。ここで検討したいのは二つ目の主張です。実は中地訳は
3 tous 代名詞で[tus]と発音。(p. 155)
という訳注を付けており、私自身も
- どの用法を見ても N1, . . . , Nn, tout であって N1, . . . , Nn-1(,) et Nn, tout ではない。そして少なくとも三つ以上の要素を列挙しており、二つだけというのは全く見当たらなかった。
- そもそも「『親方』と『職人』を列挙して『百姓』と要約する」というのは一体どういうこと?
- 仮に英語で Masters and workers, all peasants, ignoble. とあったら、形からしてさすがに all は代名詞だと読むしかないだろう。
- 信頼できる英訳は All of them, foremen and workmen, are base peasants. (Fowlie) と Masters and workers both are peasants. (Wyatt) としている。
- YouTube にアップロードされている朗読を聴いてみるとすべて例外なく前者の tous は /tu/ で後者は /tus/ とわざわざ発音し分けており、フランス語母語話者が(この文について)十中八九そう読むということはそうとしか読めないということ。
という思考・調査の過程を経て、明らかに誤指摘であろうと判断しました。
voudrais と敬語
Je comprends, et ne sachant m’expliquer sans paroles païennes, je voudrais me taire.
「俺には解っている。ただ、解らせようにも異教徒の言葉しか知らないのだから、俺は黙っていたい。」(鈴木・小林訳)
偉そう。それに je voudrais……という「……するつもりだ」という動詞の条件法現在(仮定文に使える)が、会話では丁寧表現になることへの認識がない(p. 33)
フランス語の条件法現在の丁寧表現が日本語の敬語法の丁寧語と必ずしも一致するとは限らないでしょう。『プチ・ロワイヤル』からいくつか引いておきます。
- Je voudrais attirer votre attention sur ce point. この点に注目していただきたい
- Je voudrais parler avec elle. 私は彼女と話がしたい
- Je voudrais bien changer ma place contre la tienne. できれば君と立場を代わりたいものだ
- Je voudrais bien te revoir avant ton départ. 君が出発する前にもう一度会いたいね
- Je voudrais boire quelque chose qui me rafraîchisse. 何か冷たくてすっきりするものが飲みたい
- Je voudrais revoir ce film. あの映画をもう一度見たいものだ
ラテン語風の格言
Plutôt, se garder de la justice. — La vie dure, l’abrutissement simple, — soulever, le poing desséché, le couvercle du cercueil, s’asseoir, s’étouffer.
中地訳:むしろ、正義から身を守るのだ。——辛い生活、ただ呆けるばかりだ、——干からびた拳で棺の蓋を開け、腰を下ろして窒息する。
この La vie dure, l’abrutissement simple は La vie est dure, et l’abrutissement est simple. を Ars longa, vita brevis のようにラテン語風の格言にするために(et と)est を省略しているのだと主張していますが、それならラテン語で書けばいいと思いますし、英訳だとどちらも The hard life, simple brutishness. となっています。そもそも、フランス語としては Le Bon Usage (16e éd) の p. 563 にある次の記述のように解釈するのが通例ではありませんか。
412 Formes des phrases averbales.
a) Elles peuvent contenir deux éléments. Dans ce cas, il ne manque que le verbe, souvent un verbe ayant un faible contenu sémantique, comme la copule :
Chose promise, chose due (prov.). — L’expérience que la vie dément, celle que le poète préfère (R. Char, Œuvres compl., p. 757)
中地訳で問題ないと判断できます。
二通りの votre
Oui, j’ai les yeux fermés à votre lumière.
votre ヴォートルが「あなたの」の意味で「神の」を指す例も多い。「天にまします我らの父よ」で始まる『主の祈り』の中で votre nom(御名)、votre règne(御世)、votre volonté(御心)と、立て続けに出る。ここの「あなたの光明」は「神から発する光」の意味となる。(p. 44)
しかし、マタイ 5:16 を見てみましょう。
Que votre lumière luise ainsi devant les hommes, afin qu'ils voient vos bonnes oeuvres, et qu'ils glorifient votre Père qui est dans les cieux. (Louis Segond)
かくのごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行爲を見て、天にいます汝らの父を崇めん爲なり。(大正改訳聖書)
lumière の意味をいくら論じたところで、このような用例が容易に見つかる以上は votre lumière という表現だけから決定することはできません。そしてこの文の直後から「お前たち」と続く文脈なので、ここもそう取ってよいでしょう。
婚礼
Je ne me crois pas embarqué pour une noce avec Jésus-Christ pour beau-père.
「イエス・キリストを義理の父にして婚礼」はもじりである。カトリック社会では常識だが、修道院で修練を積んだ女性が修道女になるときの誓いの言葉に、生涯独身を守る意味で「イエス・キリストを夫として」という文言がある。これのもじりだ。「イエス・キリストを義理の父にして婚礼」というのは、イエス様の娘と結婚ということだが、誰だ、それは? つまり教会ということか。でもそんなのは御免だと、茶化している。(p. 66)
修道誓願で「イエス・キリストを夫として」と言うのがそこまで典型的だとは思えませんし、辞書や Google を検索しても全然出てきません。むしろ、キリスト教の常識としてはエペソ 5:22-25 に代表される考え方が念頭に置かれているでしょう:
妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
さらに、少し前にある第二節の Je me rappelle l’histoire de la France fille aînée de l’Église.(「〈教会〉の長女ともいうべきフランスの歴史を思い出す」)を見てみましょう。イエス様の娘と結婚ということだが、誰だ、それは? つまりフランス(la France もちゃんと女性名詞)ということか。中地訳はこの「〈教会〉」について次のような訳注を付けています。
4 ローマ・カトリック教会のこと。ミシュレは『フランス史』で、「教皇たちはフランスを、教会の長女と呼んだ」と書き、中世においてはフランスがローマ教皇庁の権威を守る軍事的政治的楯の役割を果たしたことを説く。以下では、単一の「おれ」という存在が、十字軍遠征から19世紀までの歴史を縦断しながら、宗教権力(聖職者)からも世俗権力(貴族)からもかけ離れた庶民(中世の農民、旧体制下の第三身分、近代の民衆)の境遇を、想像のうえで演じてみせる。ランボーが読んだ可能性の高い、同じミシュレの『魔女』を彷彿させる書き方である。(pp. 156–157)
微妙な指摘
訳題
初期の小林訳の訳題『地獄の季節』では、「地獄のような恐ろしい季節」みたいだ。それはフランス語にすれば、la saison infernale となろう。その後、鈴木信太郎氏と組んだ訳の訳題は『地獄の一季節』となったが、これだと「いくつもある地獄の季節のうちの一つ」みたいだ。une des saisons de l'enfer となるか。
この散文詩は全編を読んでみれば、「自分は地獄で一季節を過ごした。それはもう終わった」ということなのが判る。つまり『地獄での一季節』である。(p. 7)
実は、小林秀雄も昭和五年に白水社から初版を出す時点でそのことを了解していたのです*2。
扨て、次は「地獄の季節」です。この原名は≪Une Saison en Enfer≫。これも正しい訳ではありません。直訳すれば「地獄に於ける或る季節」となります。つまり、ランボオにとつては、こゝに描いた地獄は単なる文学青年(彼にとつては文学とは文学青年の事業です)の地獄である。この世といふ地獄には色々な季節がまつてゐるといふ処から「或る」とことわったものと愚考いたします。
中地訳(pp. 338–339)でもそのことをより深い段階まで考察した上であえて「地獄の一季節」と訳しています。ただまあ、「地獄の季節」も「地獄の一季節」も「自分は地獄で一季節を過ごした。それはもう終わった」という解釈を否定するかというとそうでもないですし、語呂がいいのはそれらの方なので、何とも言えません。どれでもいいと思います。
pour + 不定法
「pour + 不定法」には英語の to 不定詞と同様に「目的」と「継起(結果)」の二通りがあります。
⓱ ⦅結果・継起⦆ (…して)そして…
▶ Il est sorti vers midi pour ne rentrer que très tard.
彼は正午ごろ外出し,夜遅くまで帰らなかった
20 [継起] 〈~+inf.〉 そして…,それから….
Il est parti pour ne plus revenir.
彼は立ち去って2度と戻って来なかった.Ils ont quitté leur maison pour s'installer dans un hôtel particulier.
彼らは自分たちの家を出て大邸宅に移り住んだ.Il finissait le soir tard pour reprendre le travail tôt le lendemain.
彼は毎晩遅く仕事を終え,翌日は早くからまた仕事に取りかかっていた.L'éphémère naît à neuf heures du matin pour mourir à cinq heures du soir.
カゲロウは朝の9時に生まれ夕方5時には死んでいく.
篠沢 (2005) は次の二つの pour がどちらも継起用法であると主張します。
- J’ai appelé les bourreaux pour, en périssant, mordre la crosse de leurs fusils. J’ai appelé les fléaux, pour m’étouffer avec le sable, le sang.
- Vais-je être enlevé comme un enfant, pour jouer au paradis dans l’oubli de tout le malheur !
中地訳も 2 については継起で訳していて、私もここはそれで問題ないと思います。1 については目的で訳していて、英訳はそのまま to 不定詞に移し替えるか so (that) と目的で訳すかのどちらかです。実は後ろにある
Je ne serais plus capable de demander le réconfort d’une bastonnade.
との連関を考えると、ここはむしろ目的で訳した方が流れがスッキリすると思います。
Le canon !
Les blancs débarquent. Le canon ! Il faut se soumettre au baptême, s’habiller, travailler.
J’ai reçu au cœur le coup de la grâce. Ah ! je ne l’avais pas prévu !
宗法儀典の説明をしているのではない。なんと、シュザンヌ・ベルナールという研究家の本にこの箇所を「大砲」ととっているとし「ことによると宗規という意味と合わせて二重の意味をかけているのかもしれない。」という注なのだ。誰かずっと若いフランス文学者が付け加えたのだろう。でも苦し紛れみたい。詩ということが分かっていない。「ル・カノン!」と叫ぶのを耳にする瞬間に「宗法儀典!」と理解できるかということを考えるべきなのだ。
そして、パーフォーマンスという意味でも、詩なり何なり文学テクストでは、「掛け詞」であるなら、「立ちどころに」「掛け詞」と分からなければならないのだ。
さらには、語学的にも、「定冠詞付き単数形」というこの姿に注目すべきだ。辞書で見ると「宗法儀典」の語は複数形で、後ろに「……の」という限定が付いて用いられる例の方が多いし、単数では「聖書正典」le canon des Ecritures と、これも後ろに限定が付く。(pp. 50–51)
第六回に、まさに私が思ったことが代弁されているのでそのまま引用します。
canon は grâce を撃ち込んで来るのだ。“それではこの canon はただの大砲ではない” ということで、ひっくりかえって考えるのはよいことではあるが、それは canon を一度「大砲」として押えておいてからの話である。ひっくりかえったあげく、Le canon ! を「宗法儀典。」と訳してしまったのでは、翻訳で読む人は、ほとんど何もわからないことになろう。(p. 41)
「ひっくりかえって考えるのはよいことではある」というのが消されてしまっているのは非常に残念なことです。ちなみに、中地訳はこの点について一切触れていません。
神の愛・神への愛
l’amour divin は「神の愛」と「神への愛」の二通りがあり、篠沢 (2005) では以下の三つすべてを「神への愛」と解釈しています。
- L’amour divin seul octroie les clefs de la science.
- Le chant raisonnable des anges s’élève du navire sauveur : c’est l’amour divin.
- Plus besoin de dévouement ni d’amour divin.
しかし中地訳では 1 と 2 を「神の愛」で 3 を「神への愛」としています。1 については、octroyer が「(恩恵として)〈人〉に…を与える, 授ける」という意味であることを考えると、「神の愛」と解釈するのがよいでしょう。2 については、天使が神の使いであることを考えると、「神の愛」と解釈するのがよいでしょう。3 については、dévouement と対等になっていることを考えると、「神への愛」と解釈するのがよいでしょう。ただし、別にどちらを採っても矛盾が起きるわけではないので、好きな方を採用すればいいと思います。
おわりに
岩波文庫新版の中地訳は非常に精確な訳文で素晴らしいということがわかりました。買ってよかったと久しぶりに断言できる一冊でした。それにしても、小林訳のランボオはなんだか「昭和の青臭い文学青年」の臭いが立ち込めているので私はとても嫌だったのですが、原文や中地訳のランボーを読んでみると、ああ、なんだか私の書いた詩(現在は非公開)に似ているなと思ってしまいました。これからは折に触れて「感覚的な詩才を超える重層的自己諧謔力」の訓練でもやっていくことにでもしましょう。